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2013年

10月

28日

第三回研究会のレジュメ

 

共同性・関係性についての研究会 第2回:報告資料

 

20131018

 

 

 

アンソニー・ギデンズ『親密性の変容』、松尾精文・松川昭子訳、而立書房、1995

 

 

 

§ 第3章「ロマンティック・ラブ等の愛着」 6176

 

 

 

愛情:自我を圧倒するもの。癒す力を有するが、病気に近いものとして描かれる

 

 

 

《情熱恋愛》・情熱的愛情

 

→愛情と性的愛着とがひとつに結びついたもので、人類史において普遍的な現象。社会的秩序を破壊する危険性→結婚生活の必要条件でも、十分条件でもなかった。情熱的愛情をとおして永遠の愛を望み、悲劇に終わる物語が多数

 

 

 

「ロマンティック・ラブ」という文化的にかなり特異な感情の分析

 

 

 

歴史:

 

l   【婚姻】前近代のヨーロッパにおける婚姻は、経済的事情をもとに行われていた→農業労働力の調達。辛い労働に追われ、貧しいセックス・ライフ

 

l   【セクシュアリティ】しかし、男性は頻繁な婚外性交渉。女性も、貴族階級においては、生殖の要求や家事から解放されていたため、性的放縦が公然と許されていた→権力の表出)

 

l   【ロマンティック・ラブ】結婚生活における禁欲的な側面と、婚外性交渉の情欲的な側面との分化は、ヨーロッパ以外の貴族階級にも存在した。ヨーロッパ特有なものは、「キリスト教の倫理観と密接に結びついた愛情を理想化する観念の出現」(64頁)

 

→情熱的愛情における束の間の相手の理想化が、愛情対象へのより永続的な没頭へと変容

 

l   18世紀後半以降、一人ひとりの生に物語性「ロマンス」をもたらし、小説の登場とも重なる:新たな上述形式の1つ→「個別個人化した話し方」

 

l   ロマンティック・ラブと結びついた観念の複合体

 

 →愛情と自由の規範化による伝統からの解放

 

 →「崇高な愛情」「高潔さ」という観念による性的熱中の制限。プロテスタンティズムの倫理との類似性。相手を「特別な存在」として際立たせる

 

 →情熱的愛情のエロス的強迫衝動とは区別される、自分の人生を価値あるものにしてくれる者への「一目惚れ」=「相手の人柄の直感的把握」

 

l   19世紀における「ロマンス」という観念→伝統の余韻を残しつつ、人生に感動をもたらす心理的安心感の一形態+未来を統制するための潜在的手段=未来のコロニー化

 

 

 

ロマンティック・ラブに対する批判:女性に幻想を見せることによって男性支配を維持させる男性たちによる企み

 

→女性自身が、ロマンティック・ラブの普及に多大な役割を果たしてきた

 

 

 

ロマンティック・ラブにたいする、女性の、抑圧されたこだわりの増大:

 

【家庭の発生・親子関係の変化・「母性概念の創出」】

 

19世紀後半:工業化→家庭と職場との分離による、男性による家庭の直接的支配の低下。家族規模の縮小と、子どもに対する長期に及ぶ感情訓練。「家父長制的権威から母性的情愛へ」。「母性概念」による《情熱恋愛》の制御

 

 

 

男性:情婦や娼婦による、ロマンティック・ラブと《情熱恋愛》との緊張関係の解消

 

女性:ロマンティック・ラブと母性概念との一体化による、親密な関係性の新たな領域の開発

 

→女性同士の対等な友情

 

 

 

空想恋愛の文学

 

1)    貪欲な消費=受動的態度の証拠→現実での挫折を受け入れることのできない弱さ

 

2)    拒否の文学→安定した家庭生活を理想とする考え方を拒否

 

 

 

→ロマンティック・ラブの普及:他の社会変動と、個人生活や結婚生活に影響を及ぼしていった重大な転換との密接な関係

 

→《情熱恋愛》とは異なる形で、諸個人を広い社会生活環境から解き放つ

 

=「夫婦関係を家族組織の他の側面から切り離し、夫婦関係を最重要視する『共有の歴史』を創り出していった」(72頁)

 

 

 

ロマンティック・ラブの意味合い

 

1)    相手に思いを注ぎ、理想化すること

 

2)    将来の展開の道筋を予想し、明示していくこと→物語性・未来のコロニー化

 

 

 

ロマンティック・ラブへの2つの解釈

 

1)    女性が理想の夫と出会うための手段

 

2)    互いに物語性をもった相互の履歴を造り出していく過程=感情的対話の作法

 

 

 

§ 第四章「愛情、自己投入、純粋な関係性」 7799

 

 

 

☆自らの恋愛に関する物語を構築することのできる女子→テーマは「ロマンスの探求」

 

 

 

l   男子にとって性の初体験は利得であるが、女子にとっての処女性は、捧げる最適な時と条件をどのように選択して物語性に組み込むかが重要になる

 

l   ロマンスの探求は受動的熱望ではなく、精神的に苦しく不安だらけの、未来に参加していくための積極的な過程

 

l   異性愛に限らない

 

 

「厄介な任務」:セックスと生殖とを結び付けている観念との闘いを通じての、性の自由の活用

 

→既存の行動理念や行動様式(=性の二重の道徳規範の容認、「母親になるという蠅取り紙的願望」、永遠の愛を得たいという望み)への逃避

 

 

 

l   再帰性の高い社会(=「自然」「伝統」〔=外的基準〕が退却した社会)において、女子はセックスや関係性、女性の位置づけに関する膨大な議論に接する

 

l   その際に、自らの人生を実質的に掌握するために闘っていかねばならない「ロマンティック・ラブにたいする抑圧されたこだわり」は、結婚とだけ結びついているわけではない。実際、人生の多くの時間を有給労働につくこと、仕事上の能力が将来自立するための基盤であることを自覚している。

 

l   しかし、仕事を人生の軸にすえる女子はごく少数で、その子らも話題を直ぐにロマンスに変えて男性との理想的な関係への願望を見せる

 

 

 

☆女性が親元を去ること:結婚→自立

 

男性:「私」

 

女性「私たち」=誰かとの愛情関係によって、「個別個人化した話し方」は保証される

 

→結婚を一契機とした、物語性をもった相互の履歴の構築(「方向づける」)

 

 

 

ウェンディのライフ・ヒストリー:再帰的な自己認識過程の高まり

 

・厳格な家庭→駆け落ち

 

・結婚=「大人への仲間入り」→促進される独立心

 

・物質的依存を前提(結婚しないという選択肢は考えられなかった)

 

・主婦だけの生活への嫌悪(母親の生き方への反発)→学校の教員

 

・夫との死別→結婚生活への依存の自覚

 

・再婚は自分を取り戻すために不可欠だったが、広い視野を持つようになっていた→努力によって自らの人生を方向づけることができた

 

・家庭にも仕事にも喜びを見出すようになり、仕事への執着はなくなった

 

 

 

ヘレン

 

・大学生の時に、名声を確立し始めていた教授と結婚→ヘレンの自尊心は夫の業績に依存

 

・夫からの離婚通告+実家からの支援の欠如→自暴自棄、孤独感

 

・仕事をしながら大学を卒業、最終的には出版社で編集者として成功

 

・自らの人生を方向づけようとするよりも、当てもなくさ迷う→自己嫌悪、虚しさ

 

・「35歳の時に私は生きる屍となったのです」(87頁)

 

 

 

結婚:自立の主張・自己のアイデンティティを確立するための手段

 

女性性を拒否せずに、伝統・慣習に反発→緊張に満ちた過程

 

開拓者

 

 

 

ロマンティック・ラブ:「親密な関係性の諸問題の専門家となった女性たちによる、未来を統制するための自己の位置づけ」(88頁)

 

 

 

初期近代:愛情と結婚との不可避的な結びつき

 

→「婚姻と、婚姻が伝統的に結びついてきた『外的』要因との切り離し」

 

男性・経済的成功・未来のコロニー化≠女性・ロマンティック・ラブ・未来のコロニー化

 

→男性にとっての愛情≒《情熱恋愛》

 

 

 

ウェンディやヘレンの若かりし頃において、婚姻は伝統から完全には解放されていなかったが、高い度合の再帰性を帯びつつあった

 

→結婚とは、「『男を見つける』だけの問題ではなく、二人の母親たちの世代のものとは異なったかたちの課業や関心事とも結びついていた」(89頁)

 

 

1章で論じられた重要な変化の準備段階

 

結婚をあまり話題にしない10代の女子→婚姻そのものよりも、関係性への着目(=《純粋な関係性》への移行)

 

 

 

《純粋な関係性》

 

=「性的純潔さとは無関係であり、また、たんなる記述概念でなく、むしろ限定概念」

 

=「社会関係を結ぶというそれだけの目的のために、つまり、互いに相手との結びつきを保つことから得られるもののために社会関係を結び、さらに互いに相手との結びつきを続けたいと思う十分な満足感を互いの関係が生みだしていると見なす限りにおいて関係を続けていく、そうした状況」(90頁)

 

 

 

愛情とセクシュアリティとの結びつきの際の媒介変数:婚姻→《純粋な関係性》

 

 

 

純粋な関係性は異性愛婚姻に限らない

 

→自由に塑型できるセクシュアリティの発達との連動

 

 

 

「ロマンティック・ラブにたいする抑圧されたこだわり」を起動力とする、「純粋な関係性」+「自由に塑型できるセクシュアリティ」の形式化(≒『プロ倫』のテーゼ)

 

 

 

☆男性の変化について

 

 

 

「堅固な特権の保守反動的擁護者という役割を与えられた」だけ

 

18世紀後半から今日(1992年)にいたるまで、変化についていけていない

 

つい最近まで、男性の活動が「歴史」を形成し、女性は伝統を繰り返しているだけだと思い込んでいた

 

 

 

ロマンティック・ラブによる影響

 

l  ロマンティスト=「女性の力に屈服してしまった、きざな夢追い人」(92頁)。にもかかわらず、女性を自分と対等な存在として見なさない。親密な関係性の探求ではなく、前時代的な振る舞いへの加担

 

→「未来のコロニー化や自己のアイデンティティの構築と結びつけて一人ひとりの生き方を秩序づける様式として、愛情の本質を直感的に理解してきた人間ではない」(92頁)

 

→ロマンティック・ラブと親密な関係性との結びつきの抑制→口説き落としという面で「愛情問題の専門家」

 

 

 

男性が欲するもの:物質的な報酬と、男性どうしの連帯の儀礼と結びついた地位

 

男性にとって自己のアイデンティティは、仕事のなかに探し求めるべきものだった

 

→未来のコロニー化のためには、「自己という再帰的自己自覚的達成課題が過去の感情的再構成を必然的にともなうことを、男性は認識し損なってきた」(94頁)

 

→男性の女性にたいする感情的依存

 

 

 

☆「ロマンティック・ラブにたいする抑圧されたこだわり」と「純粋な関係性」との対立

 

 

 

女性の性的解放と自立を求める圧力→ロマンティック・ラブの崩壊

 

 

 

X「自己投影同一化」X

 

 

 

《ひとつに融け合う愛情》

 

=「能動的な、偶発的な愛情」

 

=「ロマンティック・ラブにたいする抑圧されたこだわりの有す『永遠』で『唯一無二』な特質とは矛盾していく」(95頁)

 

→「別居や離婚の顕著な社会」は、《ひとつに融け合う愛情》が出現した結果

 

 

 

《ひとつに融け合う愛情》が現実の可能性として強まる

 

→「特別な人」から「特別な関係性」

 

<それに対して・・・>

 

理念としてのロマンティック・ラブ

 

→「関係性が外部社会の基準よりも二人の感情的没頭に由来するという」平等主義的傾向(95頁)

 

現実としてのロマンティック・ラブ

 

→「権力によって徹底的に歪曲され」「家庭生活への容赦ない隷属をもたらしていった」(96頁)

 

 

 

《ひとつに融け合う愛情》の想定が強まるほど、《純粋な関係性》の原型に近づく

 

愛情:親密な関係性(=「互いに相手にたいしてどれだけ関心や要求をさらけ出し、無防備になれる覚悟ができているか」(96頁))の度合に応じて、進展していく

 

<しかし>

 

男性の女性にたいする隠蔽された感情的依存

 

→相手にたいして無防備になる気持ちを抑制してしまう

 

 

(ロマンティック・ラブ:魅力的な男性を、よそよそしい、近寄りがたい存在として描写してきた=感情的・私的対話が求められるのは、常に女性だった)

 

 

 

→男性は感情的に傷つきやすいという新たな認識

 

 

 

【《性愛術》】

 

ロマンティック・ラブでは除外され、《ひとつに融け合う愛情》において導入された

 

→「相互の性的快楽の達成を、関係性の維持か解消かを判断する主要な要素」(96頁)

 

→《性愛術》の獲得が、再帰的自己自覚的に行われるようになる

 

 

 

X性的排他性X

 

 

 

ロマンティック・ラブは、潜在的には性の差異を無視する傾向があるが、実際には異性愛者の関係性に顕著にみられた

 

「ひとつに融け合う愛情とは、その人のセクシュアリティが、関係性の重要な要素として達成していかなければならないもののひとつになっていくような愛情関係」(98頁)

 

 

 

→「自己のアイデンティティや人格的自立との関連性について論じていく必要」

 

→「心理療法の研究所や自助精神療法のマニュアルを議論の手がかりとして」活用(98頁)

 

 

 

 

 

疑問点・論点

 

 

 

l   Xを起動力とするYの出現と、Yの自律運動化(=形式化)によるXの消滅」のテーゼについて

 

ヴェーバーへの言及(65頁)

 

 

 

l   「理念」、「社会経済状況」、「権力」の関係性

 

上部構造・下部構造への言及(95頁)

 

権力への言及(96頁)

 

 

 

l   欧米と日本における、「親密性の変容」の相違点

 

「男性のコミュ力<女性のコミュ力」は近代国家において共通した現象か

 

1990年代から?

 

 

 

 

 

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2013年

10月

12日

第二回研究会の論点

アンソニー・ギデンズ『親密性の変容』松尾精文・松川昭子訳、而立書房、1995年
序論・1・2

論点
①ギテンズの論における権力の位置づけ
・制度的再帰的自己自覚と権力の関係はどうなっているのか?

ギテンズは、言説がそれ自体社会的現実の構成要素を形作る現象を、「制度的再帰性」として表現している。フーコーにおいて、「権力知」の一方的侵入と捉え られていたこれらの現象を、ギテンズは再考察しているわけであるが、ギテンズの論では、そもそも権力をどう定義するかを論じていない。
監視し、可視化され、イゾトピー的な「規律権力」は、「再帰性」とどう異なるのか、ギテンズは詳細を語っていないように思われる。

※フーコーの規律権力は、君主権的権力と対立するものであり、身体と権力が結合する場において働くものである。規律権力は、第一に、個人の身体、時間、行 動様式を捕獲し、主従関係といった非対称的なメカニズムを排除したものである。第二に、規律権力は、連続的な監視による。これは、行動様式、言説などが記 録されることにより、可視化された身体が制度によって中央で管理されるということである。第三に、規律がイゾトピー的であることで、システム内での位置の 移動が連続的に行えるという特徴をフーコーは挙げている。

→議論の1つの方向として、制度的再帰的自己自覚的な作用が働く空間や関係の構造を明らかにする必要がある。親密性の存在する場所、制度的である社会と親 密な場はどう関係しているか。言説が生まれる際、一般の人々はどう関係しているのか。これらについて、規律権力との違いはあるかも加えて議論するべきだろ う。

②カミングアウトとアイデンティティー形成の関係性について
・性的なカミングアウトとアイデンティティー形成の関係性は自明なのか?
・同性愛・自慰以外のカミングアウトの作用はそれらと同様であるか?

例えば、私はロリコンですとカミングアウトした時、それによって、肯定的なアイデンティティーは生まれるのか。生まれないとしたら、なぜ同性愛と自慰は特 別なのか。カミングアウトには、確かに、タブーを無毒化する力があると思われるが、その過程についての議論がなされていない。

③ロマンティック・ラブとは?
・ロマンティック・ラブは日本でもあったのか?
・イギリスのラブロマンスはどんなものなのか?

そもそもロマンティック・ラブに対応する訳語が不明。ロマンティック・ラブ≒恋愛ともとれるが、訳中に「1つにとけあう愛情」、「情熱恋愛」など様々なタームが出てくるので今後注意して見ていく。
イギリスでは、17世紀のシェークスピアがラブロマンスの始めか?19世紀にはオースティンなどの女性に目を向けた小説家が出てくるが、その間は不明。

④主体について
今日、自己は、自分についての叙述を過去、現在、未来に照らし合わせてみたり、周りの何かに再帰的自己自覚することにより、自己アイデンティティーを確認 しなければならない。よって、今日の社会では、アイデンティティーは自己の中のみにあるのではなく、開かれているとも言える。ギテンズは、主体について厳 密に論じていないが、無意識下にあったものが、次第に意識下に降りてきて、選択を迫られる機会は増えていることを指摘している。どうしても、強迫的な性質 を持ちがちな近代のアイデンティティーの保持と、選択の度に民主的な解決を行い、自己について満足を得ることは両立できるのか、次回以降論じていく。

⑤用語の使い分け
訳中には、「再帰的自己自覚的」と「再帰性」と使い分けしている箇所も、原文ではreflexivityと区別されていなかった。この点について、訳者の意図についてもこの先注意して読み進めていく。
なお、再帰性と役にはあるが、reflex≒反射するという訳にあるように、自らを何かに照らし合わせて当てはめていく作業の繰り返しと取れるかもしれない。

⑥カルフォルニア風カルトとは?
ニューエイジのことかも。これについては、各自調査。

 

by K.K

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2013年

10月

11日

第二回研究会のレジュメ

アンソニー・ギデンズ『親密性の変容』松尾精文・松川昭子訳、而立書房、1995年
序論・1・2

報告者 蔭木


【要約】
〈序章〉
☆この論考の焦点
        →女性たちが極めて重要かつ一般化が可能な変化を切り開いてきた感情的秩序の問題
                →これらの変化は、「純粋な関係性」(=性的にも感情的にも対等な関係)が実現できる可能性を探求することと本質的に結びついている
                        →そうした対等な関係性(純粋な関係性)の構築は、性差に基づく既存の権力形態の打破を暗に意味する


☆主要な概念
ロマンティック・ラブ……(1
        ・女性の向上心に長い間影響を及ぼしてきた理念
        ・女性の置かれた状況に二重の強い影響
                ⒈女性を家庭という「女たちの居場所」に押し込める=純粋な関係性と緊張状態にある
                ⒉近代社会の有す「男性性」と積極的かつ根本的に結びつく=純粋な関係性を構築するための先駆け
                        ∵相手との間に永続性のある感情的きずなを、感情的きずなのもつ特質を基盤に確立できると想定されている

自由に塑型できるセクシュアリティ……(2
        =生殖という必要性から解放されたセクシュアリティ
        ・パーソナリティ特性として形成 ∴自己と本質的に緊密に結びつく
        ・セクシュアリティを勃起した男根による支配(=男性の性的経験の傲慢なまでの重要視)から解放
                →隠された感情の歴史=表向きの自己と切り離された、男性による性の追求という歴史
                        →男性による女性の性的支配が崩壊し始めるにつれて、男性のセクシュアリティが衝動脅迫的なものであることが明らかに
                                →男性の支配力衰退が男性の女性に対する暴力へと結びついている

親密な関係性の変容
        ⒈感情的緊密さの絶え間ない要求→抑圧的なものに
        ⒉対等な人間同士による人格的きずなの交流
                →公的領域における民主制と完全に共存できる形での、対人関係の領域の掛け値なしの民主化
        ⒊近代の諸制度全体を崩壊させる影響力
                ∵経済成長を最大限に求める社会から情緒的な満足感の獲得が重きをなす社会へ


〈1 日々の実験、関係性、セクシュアリティ〉
☆いくつかの変化について
従来信じられてきたこと(グラハムの一度目の結婚)
        ・女性=貞淑な女か尻軽な女に分けられる
                貞淑:性的誘惑に屈するのを、制度的庇護のもと拒否すること
                尻軽:世間体を重んじる社会の周縁に存在
        ・男性=身体の健康のために数多くの女性と性関係をもつ必要がある
                ∴婚前性交渉は好ましいこと
        ∴結婚後も男性と女性とで異なる性の二重の道徳規範が働く
                cf)妻の不貞行為は厳罰、夫の不貞は許しうる悪癖

男女平等が強まってきている今日(グラハムの二度目の結婚)
        相手に対する見地や接し方を根本的に改める必要
        「関係性」が重視され、「自己投入」や「親密な関係性」といった新たな用語が主役を演じる

社会変動と性行動(1990年のルービンの米国を対象とした研究より)
        ・性的活動の多様性の幅が広がった
                →特に十代の女の子たちの側での変化=何歳でも性行為を行う権利があると考えている
                →男の子たちは相変わらず純潔さを女の子に求めていた
                →男女とも、先行する世代の場合以上に結婚に対し性的期待を寄せている
                        →女性は性的快楽を与えるだけでなく享受することも求める
                                =性の二重の道徳規範を女性はもはや容認できない

同性愛における変化
                →キンゼイの報告書が出版された当時=同性愛が性心理学的障害
                →今日=倒錯という用語自体姿を消す
同性愛や自慰行為の表明(カミングアウト)がなされるようになったことの意味
                →ある社会現象が集合的な社会参加を通して承認され、変質させられていく再帰的自己自覚的過程の一例……(3
                →個人的人格的次元では、同性愛者であろうとなかろうと、セクシュアリティを自己の本質なり特性として幅広く言及できる状況をもたらす
                        →セクシュアリティが流動性の高いものに

同性愛者の「関係性」
        同性愛者は、伝統的に確立された婚姻という枠組みをもたずに、相対的に対等な立場で間柄を築く
                →「関係性」の構築において異性愛者に先行

☆問題提起
今日の「セクシュアリティ」
        =われわれ一人ひとりが手に入れ、育むもの
                ∴あらかじめ定められた規律として受け入れるような生得的身体条件ではない
        →可変性をもった自己の一面
        →身体や自己のアイデンティティと社会規範との根源的な接合点
        ・このような「セクシュアリティ」はどのように生じ、どのようなもので、どのように人が「自分のものにしていく」ものなのか?
 


〈2 フーコーのセクシュアリティ論〉
☆フーコーの主張(ギデンズの理解に基づく)
        ・抑圧仮説への批判
        ・セクシュアリティという概念の創出の経緯
                →近代的社会制度の形成とその強化にともなう、特有な過程の一部
                →教会での告解の内容(=「秘めごと」)への近づき=真理への接近
                        ∴セクシュアリティ(=「秘めごと」)はモダニティに特有な「真理の管理体制」の土台に
(要約者の補足:ギデンズがここで指摘したいことは、フーコーが、ヴィクトリア朝時代以降の教会における告解という社会的装置によってセクシュアリティについての言説が真理の探究という形をとって抑圧抜きに拡大した、と主張していることであろう)
        ・歴史的段階
                ・古代ギリシャ人:「自己管理」の促進
                ・キリスト教:自己は放棄すべき
                ・近代の自己の発達:「自己探究を目的としたカリフォルニア風カルト」

        →ギデンズの批判



                ・セクシュアリティに関する変化がどのように生じたのかは、性についての言説が果たす働き以外の要因に目を向ける必要がある

☆長期間にわたる趨勢
        ・ロマンティック・ラブという観念の広がり……(1
                →婚姻関係を経済的価値や親族関係から解き放し、夫婦のきずなに特別な意味をもたらした
        ・「家庭」という、労働と区別された独自の生活環境の出現
                →一人ひとりが情緒的な支援を期待できる場
        ・セクシュアリティが妊娠・出産から切り離される
        家庭規模の縮小
                ・近代的避妊法導入の条件かつ結果
                        →効果的避妊法によってセクシュアリティが多様な仕方で方向づけできる一人ひとりの潜在的「固有特性」に
                        →今日では人工授精が可能になり、セクシュアリティは生殖から完全に自立
                                =自由に塑型できるセクシュアリティの創出……(2
                                        →ここ数十年間に生じた性革命の前提条件

∴ここ三、四十年の間に生じた「性革命」の要素
        ⒈女性の性的自由の著しい変革
        ⒉同性愛の隆盛


☆再帰性
制度的再帰性
        =性にかんする言説が、その言説が描写する社会的現実の構成要素になる現象のありよう
                →フーコーはこれを「権力知」の一方的侵入と捉えたがそうではない
                ・制度的=近代という時代状況の中で社会活動を構成する基本的要素
                ・再帰的自己自覚的=社会生活を記述するために導入された用語が社会生活の中に日常的に入り込み社会生活を変容させていく……(3
                →セクシュアリティの実態について報告・分析・論評した文献が論争や新たな調査を生むという循環が、同時に一般の人々の性的営みにかんする見解や性へのかかわり方そのものを変えた
                ∴フーコーのいう告解制度とは無縁

近代社会における自己の発達
        ・自己のアイデンティティは近代の社会生活において著しく不確か
        特徴⒈自己のアイデンティティが「開かれている」
                →ゆえに精神分析は、自己自覚的に秩序づけられた自己についての叙述を作り出すための場と理論的概念的手段を提供するため重要性をもつ
        特徴⒉身体の「再帰性」
                →身体が自己のアイデンティティの歴然たる担体となっている
        →自己がすべての人にとって再帰的自己自覚的達成課題に……(3


倒錯という概念の衰退
        解釈⒈自由主義民主制国家での自己表現や自己表出の権利をめぐる闘いのある程度の成功
                but.闘いはなお続いている
        解釈⒉モダニティ拡大にともなう変化の一端
                モダニティ:かつては「自然現象」であったものが社会的に構成されたシステムが支配するようになること
                生殖の社会化には、異性愛がさまざまな嗜好形態のひとつとなる意味合いが暗に含まれる
        →こうした見解は、自由に塑型できるセクシュアリティの出現が最も重要な意味をもつ解釈につながっていく……(2


【論点】

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2013年

10月

05日

第一回研究会の追加情報(メール)

各位
 
本日はお疲れ様でした。
以下、追加の連絡事項です。
 
1.詳細な文献情報
アンソニー・ギデンズ『親密性の変容』而立書房、1995年
アマゾンには中古しか在庫ないようですが、新品がほしい方は紀伊国屋や丸善などの大きいところにいけば必ずあります。
 
2.進行
予定ではギデンズを5回で終わらせる予定です。
文献入手してもらえばわかりますが、10章立てなので基本的には一回2章のペースで進みます。
 
3.関連の文献
ちょっと話しましたが、数冊ばかり
 
J.C.ターナー『社会集団の再発見』誠信書房、1995年
→『親密性』に登場する心理学関連の概念の一般的定義を知る
 
ウルリッヒ・ベックほか『再帰的近代化―近現代における政治、伝統、美的原理』而立書房、1997年
→「再帰的近代化」論集
 
ウルリッヒ・ベックほか『リスク化する日本社会――ウルリッヒ・ベックとの対話』岩波書店、2011年
→日本の現代史をベースとした再帰的近代化論
アンソニー・ギデンズ『第三の道―効率と公正の新たな同盟』日本経済新聞社、1999年
→ブレア政権の道程となった「第三の道」論。『日本の新たな「第三の道」』という本も。
 
上野千鶴子『家父長制と資本制』岩波書店、2009年
→上野が1980年代終わりに書いたもの。近代社会の二重構造を説明している。
 
なにか質問等あれば気軽にメールください。
ではでは、今後ともよろしくお願いします。
 
 
蔭木 達也
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2013年

10月

05日

第一回で話したこと

本研究会の内容

 

本研究会では、人々の間の共同性や関係性の多様なあり方を学び、個々の参加者の関心に基づいた社会課題を考察する。

→重要なポイント

自らの社会課題をクリアーにとらえながら研究会に参加してほしい。そのために、ぜひ社会の先端にいるいろいろな人々とかかわってほしい。

 

10月・11月は、現状認識のためにギデンズ『親密性の変容』を輪読する。家父長制という近代的制度を乗りこえた個人が築く「純粋な関係性」とはどのようなものかを考察していく。

→なぜギデンズを取り上げるのか?

ギデンズの『親密性の変容』は、近代が前提としていた公と私の分離があいまいになっていく過程を指摘している。

たとえば、明治維新以降、新中間層と呼ばれる地方から都会へ出てきて単婚小家族を形成した人々から、われわれの親の世代までは、公的空間で働いて稼ぐ男性と私的空間である家庭内でいわゆる「シャドウ・ワーク」に従事する女性、という役割分担が明確であった。しかし、われわれの世代がこれから10年後、必ず結婚して男性だけの収入で家庭を維持するとか、女性を専業主婦のままにしておくということはあまり現実的でない。

そうなったときに、われわれを取り巻く人間関係はどうなるのか。与えられた役割ではなく、個人としてアイデンティティ形成を行い、他者と関係を取り結んでいく必要がある。

このようなことを考え議論するために、この本を取り上げた。

 

11月・12月は、個人間で取り結ばれる関係性の原理を近代において体系的に論じた古典であるスミス『道徳感情論』のsympathy概念を検討する。

→なぜギデンズの次にスミスを取り上げるのか?

スミスは、スコットランド啓蒙の系譜を汲み、『道徳感情論』によって人間のSympathyによる道徳性の理論化を行い、『国富論』によって社会の自生的秩序の形成を論じた。スミスのSympathy論は、そのヒューム批判からも明らかなとおり、他者の状況理解とそれへの共感が基となっている。つまり、対等な個人間における関係性を前提とした理論である(逆に、奴隷をこき使ったところで奴隷に申し訳ないという感情は生まれないだろう)。

近代は諸個人の平等を旗印にしたが、フランス革命後早くもオランプ・ド・グージュの女権宣言によってその虚構性が暴露された。つまり、近代における諸個人の平等は言葉ばかりで、実質は財産があり知的水準の高い一部の「市民」の間の平等でしかなかったのである。ゆえに2月革命が勃発し、マルクスのブルジョア批判が功を奏するという全ヨーロッパ的ムーブメントが19世紀中盤から進んでいく。

その中で、対等な諸個人の平等を前提にしたスミスの道徳理論は哲学以外の分野から等閑視されたといえる。しかしながら、今日の「再帰的個人化」の時代においては、「親密性の変容」によって諸個人がより平等でより対等な関係を取り結ぶようになる。そこで、スミスの道徳理論が現実的に有用になってくるのではないか。いまこそ、非常に先端的な議論としてスミスを読み直すことができるのではないか、というのがスミスを取り上げる理由である。

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2013年

10月

05日

共同性・関係性についての研究会について

平成25年10月4日

蔭木 達也

 

 

共同性・関係性についての研究会

 

 

本研究会の内容

本研究会では、人々の間の共同性や関係性の多様なあり方を学び、個々の参加者の関心に基づいた社会課題を考察する。

10月・11月は、現状認識のためにギデンズ『親密性の変容』を輪読する。家父長制という近代的制度を乗りこえた個人が築く「純粋な関係性」とはどのようなものかを考察していく。11月・12月は、個人間で取り結ばれる関係性の原理を近代において体系的に論じた古典であるスミス『道徳感情論』のsympathy概念を検討する。

他、参加者の関心や議論の方向性に応じて適宜テクストを選定する。

研究会は、参加者による輪読とそれをめぐる議論を中心に行われる。上記のテーマに関心のある人々が、その専門に関わらず、広く積極的に参加されることを期待する。

 

日程

【第一回】ガイダンス

10/4 19時から 三田144D教室にて

【第二回】ギデンズ『親密性の変容』

10/11 19時から 三田144C教室にて

【第3回】ギデンズ『親密性の変容』

10/18

【第4回】ギデンズ『親密性の変容』

10/25

【第5回】ギデンズ『親密性の変容』

11/1

【第6回】ギデンズ『親密性の変容』

11/8

【第7回】スミス『道徳感情論』

11/15

以下未定

 

その他

人間関係の拡大に、よりゆるい集まりの神保町サロンにお越しください。不定期のただのお茶会ですが様々な人が集まります。Fb,Tw,Googleにて「神保町サロン」を検索。

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2012年

12月

06日

12.11.20

こんばんは。ここ数日寒くて何もやる気が起きません。
私は案の定風邪を引いてしまいましたが皆様いかがお過ごしでしょ

うか。

前回のサロンで今後の方向性のようなものを少し話し合いましたので、この場でシェアできればと思い投稿します。
�参考図書について
�サロン音楽部(その他もろもろ)

私達は今までのサロンにて、ラカン、フーコー、ドラッガ—などを取り上げて、ほとんどが思い思いに(自由に)語り合ってきました。この方式は厳密さを欠くものの、思わぬものが生み出されることがあり、それらを私達は享受してきました。

今回取り上げる参考図書は、
ジルドゥールズ+フェリックス・ガタリによる、アンチ・オイディプス 資本主義と分裂症 です(河出文庫から上 下別で1200円)。

この本を読む目的というのは、厳密さを追い求めるというよりは、今までの烏合の衆としての知識がそのまま活かされるからです。
オイディプスに関する言説、ラカンなどの精神分析への言説、フーコーとの共通点など。
もし、他に面白いものをお持ちの方はそれを持ち寄っていただければ幸いです。

�サロン音楽部(?)の発足
こちらは単に趣味の領域なので、興味のある方はお読みください。

サロンのメンバーと話をしていると、バロック音楽からジャズ、アニソン、ロックなど多岐に渡る音楽の趣味をお持ちの方 が見受けられます。
聞くもよし、演奏するもよし。コンサートなどイベント類のお誘いから、セッション、バンドとしての活動や自作音源などの持ち込みがあれば、皆で楽しみたいと思いますのでよろしくお願いします。

音楽以外の趣味(チェスや美術など)をお持ちの方でも面白いお話あれば是非お待ちしております。

次回のサロンはまた日程が決まり次第ご連絡させていただきます。
皆様お体ご自愛下さい。
長文失礼しました。

K.K君
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2012年

9月

01日

2012.08.27

不完全性定理

不確定性原理

等々

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2012年

9月

01日

2012.08.20

Doc_08_20
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2012年

9月

01日

2012.07.27

ラカンに於ける想像界と象徴界の関係

 

I:自我=主体のイメージfrom<鏡>

S:主体=最も根源的なもの

 

 

言葉じゃないということ

→オデッセイアの豚の話

 

 

行動は言葉か?

 

言葉(シニフィアン)は贈与(価値あるもの)である——自分がもっているものしか与えることはできない

but.自分が持っているものは価値がない

 

∴自分から切り離された瞬間価値が生まれる:くず対象 objet de dechat=対象a objective a

佐々木中の解釈から

 

 

 

仏教=thinking mind を捨てるところから始まる

デカルト以降=考える限りで私は存在する

 

think:想像界を必要とするか?

 

 

TOMのマスター:四国出身で上京時に東京弁がまったくわからかった

&喧嘩のときに「呪い言葉」を使っていた

 

ものを教える=快感→洗脳 ∴呪術

 

自己と他者は違う言葉を使っている

その間で「意味」を生みだすーーその土台は「間主観性」(フッサールから精神分析)

 

赤ちゃんがお母さんと一緒にいるときに、お互いのことが分かる、汲める→意識されていない

 

「規律権力」——マイホーム幻想、源泉徴収=いのちを人質に

 

ハビトゥス、価値観、規律権力、生権力、言葉-神

テクスト-ルジャンドル

ドグマ

 

空気を読む強制

 

「分かり合おうとできないことが一番かなしい」石牟礼道子

 

個-個、「マイナー性」ドゥルーズ/国-国、「友敵理論」シュミット

 

ポスト昭和の価値観——一世代差の相続——自覚の有無が問題

 

 

貨幣=既存のテクスト⇔対抗する、自分のテクスト(=生産)で生きる

「面白そうやんけ」ということ

交換価値から使用価値へ

 

 

言葉しか信じるものがない=神

原エクリチュールがわれわれを規定

→映像、物語へ「トレンディドラマ、サザエさん」

 

演説=「演(うた)」

女工のうた

甚句

 

聞き書き甲子園、共存の森

 

世を拗ねる

 

 

「もののたましい」

金では移らない、時間が経ってから届いてくるもの

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2012年

7月

25日

2012/07/20

議論1

脳科学と思考をどう結びつけるか

記憶とはどのようなものか

参考図書『ニューロンの生理学』(未読)

 

議論2

こころとものの出会う場とは

こころ=ラカン現実界=全て?

もの=想像界+象徴界=res・realitusの世界?

安直に過ぎるか

 

議論3

ラカンの主張において

主体はどこで生まれるのか

主体と母と父との関係はどうなっているのか

そこにある鏡とトレ・ユネールは

次回以降の課題となる

 

議論4

延命治療=もはや「死んでいる」ひとを生かす医療

だから「延命」ではない

生きている人のエゴでは

主体はどこで死ぬのか

 

議論5

脳死と臓器移植はどうか

 

 

面白い議論となったが勉強不足を痛感。

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2012年

7月

25日

2012/07/11

議論1

日本人はなぜ発言しないか:わからなくても困らないから?

 

議論2

ラカンにおけるシニフィアン、ランガージュ、パロールの関係

 

議論3

ラカンの言う鏡とはなにか

 

議論4

知的-心理-物理

クーンとフーコー

 

議論5

教室の教壇

自己表出と指示表出

パノプティコン

 

議論6

プシュケーとソーマ

プネウマとサルクス

 

議論7

権力に対するネットの正当性

啓蒙の弁証法

パラロジー

 

 

うーん、言葉=理性という前提が無意識のうちにあるか。そこの定義は確認すべきだった。

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2012年

7月

11日

2011年初頭のメール

さて、昨年の問題点といたしまして、やはり場所がないと恒常的なサロンの開催は難しいと思い至るにつき、 
今年は新年度が始まる前に田町に場所を借りたいと思います。 
つきましては、ご関心の皆々様にご協力頂きたく存じ上げる次第でありまして、 
もし立ち上げに協力してやろうと言う方がいらっしゃいましたら是非 
わたくしのほうまで一言お申し付けください。 

無事場所を作ることが出来ましたら、月2ぐらいの定例化が出来ればと存じます。 
もちろん、いつでも来れる、という雰囲気は残したいと思いっております。 

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2010年

8月

01日

第五回神保町サロン

記憶が定かではありませんが、このころに後期高齢者医療制度について厚労省の意見交換会があり、サロンで議論した結果をK君が厚労省まで行って議論し、当時の長妻大臣の前で話しました。

そんなこともありましたね……

 

メール発掘したので貼付

---

次回のサロンのテーマの提案と8月7日に開かれる後期高齢者医療制度の廃止に関する意見交換会への随行者の募集です。

民主党に政権が変わりましてしばらくですが、その目玉政策の1つとして後期高齢者医療制度の廃止があります。(ワイドショーなどでも最近よく取り上げられています)

先週には制度廃止後の高齢者医療制度をどうするかについての中間取りまとめ案が発表されました。

8月7日には、その中間取りまとめ案に対する一般の人達の意見交換会が開かれます。(僕も参加できることになりました)

そこで次回のサロンでは、中間取りまとめ案に対する皆様の意見も拝聴したいので、サロンのテーマの1つとして後期高齢者医療制度を設定してもよろしいでしょうか?
(制度に関して僕が簡単に説明などしたいと思います。)

また、厚生労働省講堂で開かれます意見交換会にもし行きたい方がいらっしゃいましたら僕に連絡を下さい。(随行者という形でチケットが配布されます。)

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2010年

6月

08日

第四回神保町サロン

6/2に行われた第4回のサロンのレポートです。

参加者:5名
場所:神保町「さぼうる」・小川町「サイゼリヤ」・駿河台「マクドナルド」

テーマ:政治と思想



鳩山総理辞任に伴い急遽開催したところ、それなりの人数が集まり盛況な議論となりました。



以下、レポートします。

 

 

 

 

0.イントロ
~正しいブラック・ジョークの使い方~

ブラック・ジョーク。

近年の世知辛い世の中ではなかなか通じない。
ブラック・ジョークは、これを他人に言うと次から倍になって自分に返ってくるという危険も伴う、諸刃の剣。素人にはお薦め出来ない。

ブラック・ジョークを口にすることができる者は、次の四つの段階を超えた、すなわちこういう者である。
まず第一に、自分の強みも弱みも、自分のアイデンティティ、自分らしさの一部として自分の中で消化出来ていることが大前提である。これはある意味での自分のプライドとなる。
そして第二に、それらがどんなことであれ自分の良さとして肯定的に受け止められていなくてはいけない。折角の弱みをマイナスに捉えてしまって人生に活かせない、なんてことはあってはいけない。
それだけできていて、第三に他人に対する思いやりにあふれていること。そうすれば、他人の色々なところ――強みであれ弱みであれ――を須らく肯定的に受け止められようというものである。
第四に、そこまでできて初めて、そこから一つ拾い上げてブラック・ジョークにして投げてやることができるという寸法だ。
即ちこういうことである、ブラック・ジョークとして投げられている言葉でも、その言葉の発言者と言われている対象者の間では、それは肯定的に捉えられている。しかし、それが周りの人には否定的な言葉にしか聞こえない。そのギャップが人を笑わせるのだ。対象者がその場にいなければ、発言者が一般的にマイナスの事象を肯定的に言うだけでそれはブラック・ジョークとなるというわけで……

自分に関する物事を――特にそれがいわゆる一般的にはマイナスに捉えられる物事であった場合――視点を変えて前向きに捉えるためには、2つのことが必要である。
一つは、教養。教養とは、文化的な知識や品位というだけでなく、単なる知識ではない、人間がその素質を精神的・全人的に開化・発展させるために学び養われる学問や芸術などが含まれる。勉強ができると言うのとは又違うことだ。
もう一つは、余裕。余裕のない人というのは、少しでもなにか言われると自分が否定されたような気持ちになってブラック・ジョークを受け止められないものだ。余裕がある人は、それが肯定的に捉えられている側面をきちんと理解して、ブラック・ジョークをうまく切り返すことが出来る。

さてはて、神保町サロンに来ている連中――多くが附属の男子校出身者だったりするのだが――は皆、ブラック・ジョークがお得意なようである。まったく、勉強もせずに喫茶店に入り浸って塒を巻いて教養を育み、甘えた生活で余裕たっぷりと来たものだからいやはや質の悪いものである……などと主催者が曰ってしまっては、もはやジョークにもならないであろう。お粗末さまでした。


1.石田三成の逸話

今日、日本のトップに立つ人間にはどうも色々なことが求められているようである。周りの言う事をよく聞きながら、自分の考えを途中で曲げたりせず、最後まで職務を全うし、国民の意見をしっかり反映する政策を、政治家主導で官僚を使いきちんと実行すべきところはし、そうでないところは良く議論をし……そういう人間が総理大臣に相応しいなどと街頭アンケートで国民は曰うが、お笑いである。ひとりの人間が同時にジェネラリストで全てのスペシャリストでしかもファシストで絶対に正しい方向に導いてくれるなどという妄想、笑止千万である。

石田三成は、とても優秀な武将だったと伝えられる。その中で有名な逸話として伝わっている、次のような話がある。
 三成がまだ若かった頃、彼は石高わずか4百の領主であった。当時有名な領主となれば数百万石を支配する時代であるから、相当にちっぽけな規模である。当然、召抱える家来も高が知れたものとなる。と思いきや、当時超優秀な武将で誰にも仕えることがなかったという島清興(島左近)を召抱えた。彼は秀吉や勝家に、2万石もくれてやるから仕えてくれないかと言われていたのにも関わらず、それを無下にも断っていた程の武将である。三成の上司であった秀吉が驚いて、どうやって左近ほどの者を召抱えられたのかと問うと、三成は事も無げに「4百石で召抱えたのです」と答えた。即ち自分の石を全部くれてやったと言うのである。左近に、2万石で数いる武将の一人として生きる人生より、4百石でもトップとして未来と責任ある地位につけ尊重される人生を選ばせたのだ。領主が昇進していく上で、たった一人の優秀な武将がいるだけでその道は大きく変わってくる。そのための合理的な判断と決断、そして長期的な視野と説得力、そして相手を共感させる力、これらが揃った三成だからこそ出来たことである。
近年の政府は長期的な視野がないため政策の説得力に欠け、自分がやるべき事の合理的な判断と決断ができないまま全てを抱え込み、マスコミに篭絡されて国民の共感を得られず退陣していくことばかりである。

上に立つ人間は、あらゆるスペシャリストとあらゆるジェネラリストを揃え、理想的な環境で合議をさせ、そこで出た最良解を代弁するだけでいい。今の日本にはまずスペシャリストがいない。次に国民の最大公約数を取れるジェネラリストがいない。そして最良解を正しく伝えるマスコミがいない。誰がトップに立ってもぐだぐだな政治体質が変わらないのはこれが大きな原因であろう。


2.政党擬人化

公にするには不適切な内容のため、自粛。


3.党と右と左と

「2大政党制では足りない、2大政党には入らないマイノリティが沢山ありすぎる。」
これを言った人は外山恒一の受け売りと言いながら、せめて5大政党ぐらいはあるべきだと次の5つを挙げた。
・自由(ゆるい保守)
・保守
・社会(ゆるい革新)
・共産
・環境
現在の日本は自民党と民主党の2大政党制だが、それぞれの政党の中でゆるい保守とゆるい革新が綱引きをしあっているような感がある。
社会の中ではもうちょっと幅があり、強い保守はヤクザや右翼が担っている。強い左翼は昔学生運動などがあったが、近年では学生団体や一部の環境系NPO、市民活動団体などがそれら新左翼的な影響を引き継いだセンスで活動の幅を広げていると言えよう。

右派左派の中にも、エリート層の賢い右左から煽動されるだけの馬鹿な右左まで幅があると言える。それらを一括りに考えるのは難しい。
近年の社会的関心の低下から、賢い右派というのはどんどん減ってきている。しっかりとした現状認識の元から社会的理論を構築し、現実的路線で良い方向に進んでいくという考え方はもはや絶滅の危機に瀕している。教育の現場で政経を碌に教えられることなく育った学生たちが多面的な現状認識をできるはずもなく、自然と今の社会とは違う理想的なビジョンを求めるようになる。多くの大人達がそれを見て甘えだ、ゆとりだと云うが、既存の社会構造に則った考えから言えば尤もな批判である。
賢い右派の理論で、あるべき市場の姿に戻すための不良債権処理や時勢に合わせた金融緩和等の経済政策を推し進めた小泉・竹中は功罪両面の結果を残し、国民には負の印象が強く残った。国家理念として強い右路線を打ち出した安倍は時勢に合わず舞台を去り、現実的な右路線を進んだ麻生は多くの成果を出しながらも、マスコミと閉塞感から脱せない国民に引きずり下ろされた。
そのような賢い右派の考え方を絶滅の危機に追い込んだのは、賢い左派の人々だ。彼らは合理的な理想のビジョンを明確に持ち、現状の社会が進んでいる方向とは違う価値観、別の真理に向かって、彼らの持つ正しい理論の元に活動を行う。今日の閉塞感溢れる社会では、既存のシステムの中で足掻くより、新しい時代に向けて、新しい時代に合った云々というのが持て囃されるのも自然なことだ。
しかしながら、非常に合理的かつ理想的で全体的なビジョンを持って、新しい公共や脱55年体制、高福祉の大きな政府を目指すなど大胆な国政改革に取り組んだ鳩山は、多くの国民に全く理解されず早くも政治の舞台を去ることになった。同じ改革を旗印にしていても、小泉が掲げた改革という言葉の意味と鳩山が掲げた改革の意味が全く違うということをご理解いただけるだろうか。
賢い左派は、革新のために多くの馬鹿な左派を活用する。学生団体や市民団体では、ビジョンは持っていないが何か自分が大きなシステムの改革に携わっているという満足感のために活動をしている人が多くいる。 賢い左派はこの人達を上手く使い、着実に革新を進めている。それを指を咥えて見つめており、外野からやじを浴びせるだけ浴びせて社会に靡くのが馬鹿な右派といわれる人々だ。

中学校の一学級を例にとってみよう。授業中なのにがやがや騒いでいるのは、誰かが喋っているからとおしゃべりを始める男の子たち。これは馬鹿な右派と喩えられる。それをこれ見よがしに注意する女の子は馬鹿な左派に喩えられる。あいつはただの目立ちたがり屋だと冷ややかな目線を浴びせながら授業を真面目に受けているのが賢い右派である。賢い左派はもうお分かりであろう、美しい教育哲学に則って授業をしている先生だ。

右派と左派についてもう一度整理しよう。今の時代、イデオロギーというものが見にくくなっているので右も左もないという人もいるがそんなことはなく、これは傾向の問題なのでよく考えたい。
ある問題が存在して、それを現状の理論の中で正しい方向に戻そうという考え方が右寄りの考え方である。新しい価値観を樹立し合理的で理想的な方向に変えていこうというのが左寄りの考え方だ。前者のほうがより現状維持的で、後者のほうがより理想主義的である。


4.精神的か物理的か。感性的か理論的か。

右左や色々な考え方をマトリクスにわかりやすいようにするため、見出しにあるような2軸、精神的か物理的かの軸をx、感性的か合理的かの軸をyと置こう。
精神的――即ち既存の価値観を重視しローリスクな考え方――で感性的な象限に、右派の考え方は位置づけられる。伝統や価値観を重んじ、異端を排除し保守的な考え方のディメンションだ。
その対偶にある、物理的で合理的な象限には、左派の考え方が来る。合理的に導かれた理想は物理的に達成可能である、既存の価値観やシステムは非合理的である。革命を行わなければならない、と。
物理的で感性的な象限に来るのが体制だ。体制は物理的なものだが、理論的に正しい方向ではなく社会感情的に正しい方向に成立している。当たり前のことであるが。
残りの、精神的で合理的な象限に来るのが革命だ。社会感情が合理的に正しい方向を志向し、社会を変えようという精神が共有されれば新しい方向へ社会が動く。次の瞬間、それは既存のシステムと化し、また新しい理論に対してより感性的で陳腐なものとなる。

より精神的な側面を取り扱うのが人文の分野だ。それに対してより物理的な側面を取り扱うのは理工である。また社会的傾向として、精神的でロマンチストなのは男、物理的でリアリストなのが女である場合が多い。精神的な側面は右脳、物理的・理論的側面は左脳が担う。
また、より感性的な行動をとるのは多くがより年上の人で、より若い人はより合理的な選択をしようとする。そこで大人は子供にこう諭すのだ。「確かにその理論は正しい。しかし社会は厳しいのだよ」と。畢竟、若い男性は革命に走り、若い女性はそれを理解し支援する。年老いた男性は変わることを頑なに拒否し、年老いた女性は積み上げたものを守り続けるのだ。社会性向として強ち間違ってもいない仮説のように思える。


5.中休み
~民主党政権になって~

鳩山さんはなぜやめたんだろう。諸説があるが、彼が馬鹿な国民にうんざりしたか、党内で駆け引きがあったか、その両方か、まぁ大方そんな所だろう。
反小沢で空港ハブ化の議論や鉄道の海外受注のためのトップセールスをした前原さん、考えてることはいいんだけどちょっと一人遊びをするきらいがあるかも。政治はひとりじゃ出来ない。
鳩山政権で議論されたあらゆる法案。郵政改正法案で焦点になったのはゆうちょのペイオフ上限の引き上げ。青天井に膨らんでいく国債を買うためには仕方がないと議論を弄しても、日本から資金が回ってこなくなる事を懸念するWTOや、ゆうちょだけ高額預けても大丈夫になるなんて不公平だ、と他金融機関からの反発は強い。
公立高校無償化も、実質的には専門性が低い教育に長期間浸かっていなければいけない仕組みになるのではないかという懸念が払拭されない。勉強ギライの人の選択肢や質の低下の危険性、他の費用が払えず結局高校に行けない子供たち。教育の期間が長くなればいいという話ではなく、何を何のために学ぶのかを教える側の社会がちゃんとわかってなくてはいけない。子供手当てに至っては財源がなくその内打ち切りになるんじゃないだろうか。


6.教育

文系と理系の話はよく出てくるトピックスだ。今回出てきたのは2つ。
一つは、どの学問も使うツールに関しては不問であるが、対象の違いによって理工と人文に分けられるというものだ。例えば、統計や微積分は理系でも文系でも使うツールである、などということである。
もう一つは、対象と方法、人文と社会と自然、この2軸で分類して考えるという方法だ。
人文、社会を対象として探求するものは文系の範囲に入る。自然を対象とするものと、社会と自然の方法を探求するものが理系の範囲となる。人文の方法を読みとくのがアートの範囲だ。

教育学とは何か。
教育学のカリキュラムとしては、凡そ以下のようになる。
基礎としてまず教育哲学、教育史、教育心理学、教育社会学などを学ぶ。次に、教育方法学、カウンセリング、指導法などの技術を学ぶ。その後、自分の専門とする教科や、種種の教養的教科を学ぶというわけだ。
しかし、一番基本の教育哲学のところに教育学の胡散臭さがあるという。それは、なぜ教えるのか、教えるとはどういう事かを学び考える部分なのだが、これには実証性がない。
そもそも、どのような学問にも、その対象の是非に関しては考えないものだ。例えば美術学を先行している人が、美術というものが存在するべきかしないべきかに関しては感知しないのと同じである。しかし、教育学を学んだものは多くが教師になる。研究対象として取り扱っていたものを実際的にツールとして自分が使い体現することになるのだ。
教育学と教育。その関係についてはまだまだ議論の余地がありそうだ。

社会学。これは観察や統計から論理的に見いだせることを導き出す学問だ。

果たして、日本の文系が衰退したのは学徒出陣の影響が大きいという論もあった。


7.中休み2

~世界の黒い霧~
日本がWW2で刷った赤字国債を買っていたのはスイス人の富豪などだそうで、三井などが買っていた額などよりよっぽど多いという噂もある。
日露戦争の戦時国債はポンド建てで売り出し、ロスチャイルド等が大口購入したなどという実しやかな噂もある。
何れも真相は黒い霧の中だ。何に振り回されているのか分からない。


7.ジャーナリズム

学徒出陣の話から、ジャーナリズムの話となった。日本にはジャーナリズムがない事は既に周知の事実のようにいわれているが、果たして日本に客観的な正しい情報を入手する方法はあるのだろうか。なぜ日本にはジャーナリズムがなくなってしまったのだろうか。

問題の根本の一つは、日本が戦時中に行った新聞統制にある。その目玉である一県一紙制というのは事実上現在まで引き継がれてしまっているシステムだ。これは戦時中に紙の節約のため1939年に発令され、朝日、毎日、読売の三大紙以外の新聞社は尽く統合し、一県に一紙だけしか置かないという制度である。それまでは一県に三紙程度あった新聞社がみな統合され、一県に一紙だけになったのだ。また、各社には三大紙の何れかが指導につき、当局の意向に反するような記事を掲載しないよう監視を行ったという。戦後にはもちろん制度が撤廃されたが、弱体化した新聞社が再び分裂することは殆どなく、指導を受けたために各社とも個性を失ってしまった。経済新聞という枠で戦中も発行を認められた日経新聞と産経新聞のみが、三大紙の影響を受けずに今日も続いている。
また、1936年に立ち上がった同盟通信社は、政府にとって都合の良い、集約された情報発信源となった。1945年に解散された後、現在も部門ごとに共同通信社、時事通信社と形を変えながら強い影響力を持っているソースである。
もう一つの問題は、新聞にTV、雑誌にいたるまで、同一資本の元で動いていると言うことである。同一資本である以上、元締め企業の意向に沿う形で情報が発信され、結果的にどこのメディアからも同じような傾向の情報が発信されることになる。但し、これは至極当たり前のことでもある。
これら二つの大きな原因から、日本のジャーナリズムからダイバーシティがなくなり、多面的な情報や客観的な情報が非常に手に入りにくくなったという現状があるのだ。

ただ、ネット上では状況が変わる。中国がGoogleに対して大規模な検閲を行っていたのは周知の事実であるが、それを真っ向から批難していたアメリカもgoogle検索から数万件のアクセス規制を行っているという噂がある。それに対し、日本は一桁しか規制されていないと言うのだ。ソースが見つからないので噂話の域を出ないが、実際に米愛国者法などアメリカでは検閲をしようと思えばできる体制は整っているのに対し、是非はともかく日本ではあまりそういった議論すらなされない。出てくる情報に対しては今のところ非常にオープンな国であると言えよう。


8.戦争について

戦争の発生について考えてみよう。
まず生物学的にもはっきりしているのは、同族同士であれば大規模な殺し合いはしないということである。また、土地に縛られていなければ戦わずに離れることができるのでこれも殺し合いにはならない。
農業が始まってから、農地や資源のある土地の取得を巡って戦争が起こり始めたのである。最古の戦争が肥沃な土地を巡ってのものであったし、最古の刑罰が追放であったことからも納得できる。
土地に縛られムラが形成され、違う部族同士の対立ができて戦争が始まるのだ。

戦国時代のメイン武器は槍だったと言う。しかし、遺跡などから負傷、殺害されている人の多くが矢によるものだったそうだ。やはり同じ生物であるので殺すことに抵抗があるのだ。槍で刺されている人の多くは背中からであり、逃走中顔を見ることなく殺せることがその理由であろう。逆に、向い合ってエイヤーとやっている間は中々殺せないと言うことである。
しかし、それは慣れで克服できることであるといい、米軍などではバーチャルシュミレーションによって殺害による心理的負担になれるよう訓練しているそうだ。これが可能ということはつまり、FPSゲームなどで画面内での殺人に慣れている人は、実際の世界でもFPSをやっていなかった人より殺人に対する抵抗が弱いということである。
WW2の時は、8割の人が人間に対して銃を引けなかったと言う。実際は上位2割の人が8割の戦果を出していたと言うことだ。


9.中休み3
~若者と政治~

「今の日本は若者に対して徹底的に不利である。しかし今は全てを覆す時代ではない。今の仕組みの中で革命を起こさなくてはならないということだ。例えば、若者の柔軟で豊かな発想を汲み取らなくてはもう日本の未来はないと年寄りたちに思い知らせるようなシステムやイベントを開催し、人数では年寄りに圧倒的不利な若者が存在感を主張して1票にレバレッジをかけるシステムなどを実現したい」と考えている人がいるそうだ。

今の政治のシステムは、若者が何をしたところで社会は変わらない。実際、学生闘争の時に学生の無力さは証明されている。彼らの時代はまだ人数で張り合えたが、今はもう国内で若者がマイノリティ、政治に積極的に参加している若者は数多くいれどもインセンティブは一向にない。世の中が若者によって変わることが万に一つもないという無力感。これを改善しなければ、次に批難されるのはいずれ年老いる今の若者だ。


10.土建政治について

今は社会が変わる過渡期である。この状態があと5~6年は続くのではないだろうかという意見があった。その後、すべて覆って新しい社会、価値観が台頭するであろうと思われるが、それがなんであるかはまだ誰にも分からない。
首相がころころ変わってしまう――すなわちトップがダメなのは、ブレーンが弱いことに原因があるだろう。また、今考えてみれば、首相の言うことがころころ変わってしまうのは、権力基盤が弱いために下からの意見が集約されずに上がってくるからだろう。民主党に政権与党を初めて担当させた国民にとっては、避けがたいコストである。

コンクリートから人へというキャッチフレーズで前原さんは建築業界の改革を行った。一部では当然反発はあったものの、何時までも土建国家ではいられない、社会の変化に伴う負わざるを得ない負担であり、これまでの時代は終わらざるをえない時代なのだ。これまでは、すべての根幹であった建築業界は大きな票田であり、自民党と持ちつ持たれつの関係だった。今、その付けが回ってきている。賃下げなどで切り抜けられる部分も少なく、これからどう生き延びるか、誰が退場するのか、これは政治に頼らず自分たちで考えなければならないことである。
また、海外に比べるとリスクを取るノウハウが無いため爆弾を抱えてしまったり、海外に出ていくことを躊躇う雰囲気があるという。今の課題は、外需を如何に取り込んで内需を高めるかと言うことだ。建設業界は真っ先に外需に乗り込んで火傷したが、それを繰り返して学びながらノウハウを積んでいかなければならない。
しかし、日本企業のトップ層は考えが固く、何も動こうとしない。上が年寄りばかりで下の前線の意見が届かず、新しい社会、新しい体験から学ぶことができない。鳩山さんも、リスクを取らない、取りたくない(国会議事堂の右側の)年寄りの人々にうるさいことをいわれて辞めさせられてしまったのだ。


11.エンディング

結局、パイオニアとなるのは若い人である。
あっさりと壁を崩し、その先にあるものへ手を伸ばせるか。
問われているのは自分たちだ。

 

 

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2010年

4月

13日

第三回神保町サロン

4/11に行われた第3回のサロンのレポートです。

参加者:3名
場所:神保町「神田 伯剌西爾」

テーマ:人と信頼

 

コーヒーゼリーが本当にコーヒーの味がするコーヒーゼリーなお店。とりとめなく話していました。

 

以下、レポートします。

 

 

 

 

めもちらかし。

 

■2人のダメ学生の話

一年で22単位しか取れなかったA君と半期16単位しか取れなかったB君がいた。よくある話だ。

どちらもダメ人間なのだが、A君は自信過剰で自己意識が強い。B君は意思が弱いけど謙虚。

クラスの連中はB君の奴には4年で卒業できるよう、救いの手を差し伸べた。A君は自信過剰であまり人の話も聞かなそうだし、自分でやれというわけで相手にしなかったそうである。

果たしてB君は確かに助けられつつ4年で卒業できるかも知れないが、A君はここで奮起すればさらによい結果に結びつくかもしれない。

但し、人の話を聞く姿勢がなかったがためにA君は周りの善意の手助けを受けられなかったのは確かだ。

我が道を進むのなら、自分で責任を取らなければならない。A君が浅はかな考えの中で独善に陥り留年などすれば、それは彼にとって一番の悲劇である。

しかし、浅はかな考えから脱するには人と触れ合わなければならない。他人の声に耳を傾け、謙虚な姿勢をとることは、我が道を進まんとするものにも有用である。

 

■木村コーチの死

木村氏は、元は強肩捕手として日ハムにドラフト外で入ったが、いまいち開花せずいっときは任意引退選手扱いとなったという。そこで、自分の才をチームに貢献するためにと、猛練習をして外野手に転向。

しかし、交換トレードで広島カープに移籍する。このころ打撃は非常に非力だったと言う。他選手の後継として二塁手にポストがあるということでそれに取り組む。数年後には故障の多い選手のサブとして遊撃手のスキルも磨き、その欠を補う。

さらにその陰で、弱点だった打撃にも磨きをかけ、代打の切り札としても活躍するようになる。

その後また捕手をやったり打撃の1番を勤めたりと、このころ貴重なユーティリティプレイヤとなった。

彼は自ら自分の仕事を見つけ、全力でそのスキルを磨き、ジェネラリストとして大成したのである。

彼の突然の死を多くの人が悼み、惜しむ声がこれほど多く聞かれたのは、その彼の野球に対する真摯な姿勢と、チームに貢献し飽きることなく自らのスキルを磨き続けた努力があったからこそである。

 

■真摯な奴

専門家や学者はよく突慳貪であるといわれる。大学教授なんかもとっつきにくい人は本当にとっつきにくい。

専門家などがとっつきにくいのは、我々凡人の話など歯牙にもかけないからである。それも道理で、彼らはその道のプロフェッショナルなので、専門の話であれば一般人の話など聞いても、説法を聞かされる釈迦同様の心持ちというわけだ。

しかし、よほど物事に精通した専門家でなければ、人の話を聞くことは重要だ。他人の話に耳を傾けなければ、お互い理解することもできないし、信頼することもできない。人は一人では生きられず、協同に生活をしているのだから、人の言う事を全く聞かずに、コミュニケーションを取らずに生きるなどと言うのは到底できない話である。

しかし、近年では核家族化や仕事の分業化や効率化によって、多くのことを個人個人独立してやらねばならなくなった。人と人とをつなぎながら流れるのは言葉でなく、お金しかない。自分中心で生きることが許される時代になってしまったのだ。

そうすると、どうも他人とうまく接することができないことが生まれてくる。普段は自分の考えてる通りに仕事を進めたり、パソコンを操ったりできるのだが、相手が人ではそうは行かない。お互いを理解し信頼しあうために、そして同じく社会に生くために、話を聞き合うことが肝心である。

そこで積極的に話を聞こうとする人間は信頼しやすいから、乃ち真摯な奴だとなるわけである。

 

■ダラダラしてるな

人はどうも、怠けても良い状況となると本当に怠ける生き物である。

いや、それはもちろんやらなければいけないことがあることは頭の隅っこにあるのだけれども、それを思えば思うほど体が動かない。もうちょっとダラダラしていていいかなァ、なんて何時まで経っても仕事が進まないと言う道理である。

しかし、人は一生懸命にならないと、人生は充実させられないし、何事も成し遂げることはできない。そのきっかけは、そのことが好きだとか、あいつに勝ちたいとか、これを成し遂げたいとか、かっこいい姿を見せたいとか、なんでもよい。兎に角この鬱陶しい世界から何とかして自分が一生懸命になれるきっかけを、仮初にでも見つけることである。

物事に一生懸命に取り組む、すると経験が積まれ、何がしかの成功と充実感がもたらされる。そうすると、その成功したと言うことが次に何かに一生懸命になれるきっかけになり、いい螺旋が生まれるのである。

また、社会と繋がっておればメリハリなくダラダラしている奴など放っておかない。もちろん、常にフルパワでは体が持たないので、遊ぶとか勉強するとか働くとか休むとか、これらのメリハリが大事である。これは自分が意識しないとできないことだし、これを自律的にコントロールしなければ他人に迷惑がかかる。自己中心的な人は自分をも滅ぼすのである。

 

■今の社会

昔の人が「社会」というと、新聞の三面記事に出ているようなことが綜合されたようなことだと感ずるそうだ。今の人は「社会」といわれれば、世界全体のものの流れとか人の流れとか、そういうものを全部ひっくるめて社会と呼ぶように考える。

社会は本当に世界を結び、大きく素晴らしいものになったようである。しかしその反面、それぞれの仕事は分業化、細分化され、それぞれの仕事がなにをやっていて、何に結びついているんだかとんと見当がつかない、なんてことが起きたりする。

昔の人は、枠こそ狭かったがあちこちにある、社会という桶の中に人々が集っていた。

今の社会はあまりに広大な桶なものだから、一人一人も自分用の桶を作ってその中に収まるなんてことになっている。

社会が広くなるあまり、一人一人が孤独になっているというわけだ。

人も、いわんやどんな生物もそうであるが、力をあわせることでより素晴らしいことを達成することができる。幾ら社会やシステムや、物流が世界を飛び回る大きなものになったとしても、合わせる力がみみっちいものなら何事もなす事能わざりき、といえるのではないか。

 

■自分のなす事

果たして自分は何をしたいのか。

就職活動などを一生懸命に行っている学生がよく自分に問いかけている問である。

しかしながら、これは何も無いところから自分がしたいことを考える、というのではよくない。それはただの自己中と言うものだ。

誰もが、その所属している社会の中の一員である。その自覚を持った上で、その社会の一員として自分の強みとして活かせること、自分ひいては社会に貢献できることはなんだろうと考えなくてはならない。

しかし、最近の学生は部屋にこもってばかりいるので、社会とのつながりがないと言うことである。社会とのつながりがなければ、他人と対面したときに信用してもらえるようなスキルもない、言葉だけでなくボディランゲイジを上手く使った会話などもできないであろう。

パソコンでも携帯でも、それはもちろん文章のやりとりぐらいはできるものである。しかし、それは何とかというフォントと文字のやりとりでしかなく、実際面と向かってしゃべるときには、それはもう本当に沢山のサインを送り合っていてそれを無意識に理解し合っているというから、やはり実際に誰其に会って話す経験をたくさん積むことが肝要だ。

 

■安売り

今の時代はデフレーションといって、物価がどんどん安くなっている。そりゃ贅沢する金持ちがいなくなったのだからとことん安くていいとは思うのだが、いいものまで安く買い叩かれてしまってはもったいない。

そもそも、何でもかんでも安く売れば良いというものではない。金はもちろん何か自分に効用をもたらしてくれるものに対して払うのだが、金をはらうということは決まりだからと言うわけではなく、その価値を認めましたよということで払うのだ。

売り手は商品に想い入れもなく、兎に角誰かに売りつければいいと思って安くしてしまうのかも知れないが、やはりそれなり価値のある物に対しては、それだけの対価を払う、そういうことがしっかり行われないと、ちゃんと心と時間を込めて物を作っている人に失礼である。

そういう意味で、写真だけしか載せないで安く安く売るインターネット上の店とかを使うときは、良くも悪くもその商品に本当にどれだけ価値があるのか、しっかりと見極めて買うことが肝要である。また、売り手の方もデザインや性能に自信があるなら、一銭足りともまけずに堂々と売ればよい。また、堂々と売れるものを売り出すべきなのだ。

 

■分別

していいことと悪いことの区別。これは大きくなってから世の中に出ていろいろと気づくことがある。

しかし、これを大きくなってから気づいても、なかなか直せないものである。また、自分の中で当たり前になっていると、気づくことすらできないことが多い。

分別というのは、社会で生きていく上でのルールのようなもので、最低限身につけておかなければならない。子供の小さいうちに、社会が子供に分別を教えるべきなのだ。

 

■年寄り

昔は15にしてもう一人前の大人として見られていた。人生がだいたい50年で終わっていた頃の話だ。

最近では平均年齢が八十某と、倍ぐらいになっている。

20で成人するも30ぐらいまでは結構好き勝手出来る社会になりつつある。

それに応じて、活躍できる最高の年齢も徐々に上がっているのではないか。

昔は30にもなればスポーツ選手は引退だったのが、今やスター選手が30代後半なんてこともある。

65歳以上の人口が云々というが、電車にドカドカと乗り込んできて我が物顔で他人を押しのけ座り、隣の車両まで響くような大声でおしゃべりをするパワーがあるなら、75歳や80歳まで社会で活躍していただいてもよかろうとおもうのだが。そのほうが本人たちのためでもあろう。

 

■集合知

集合知は多くの知らないことが混じり合いながら、そこから新しいものが生まれるという化学反応だ。集団力の強さはその何乗にもなるパワーもさることながら、集合知が生み出す新しい視野も大きな魅力だ。

 

■選択

人間、全ては選択できない。何を選択するか考えよう。

人間結局、何も選択できないかも知れない。与えられたものの楽しみ方を考えよう。

 

■努力

努力している人は信頼される。

後悔はするな、時間の無駄だ。反省をせよ。

そして自分を信じるべし。

 

 

 

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2010年

3月

29日

第二回神保町サロン

3/28に行われた第2回のサロンのレポートです。

参加者:5名
場所:神保町「日比谷Bar」・神保町「カフェテラス古瀬戸」
テーマ:大学教育について
※今回のサロンは前回3/26の内容を一部引き継いで行われています。

日曜日で大学が休みなのでカフェも軒並み休業日で、開いているカフェを探すのに一苦労でした。

以下、レポートします。

 

 

 

 

0.A君メモ

イントロダクションに代えて、前回のレポートを読んだA君が考えて綴ったことを簡単に書く。
それは次の2点である。
?.勉強とは何か。
勉強とは人生に於いて学びを行うことの全てである。
授業でやったこと、書物から学ぶことのみが勉強ではなく、経験や体験から勉強することもできる。
?.人生に於ける被教育機会6段階
~中学卒業(15歳)まで:受動的な被(一般的)教育
高校(16)~就職(20前後):目的を持った被(職業的・究学的)教育
就職~10年目(30前後):OJTなど被(職業的)教育、働く中で生き方を考える被(清身的)教育
10~25年目:働く中での被(職業的)教育、生き方を考える被(清身的)教育
25~45年目:管理労働者としての被(職業的・究学的)教育
退職後~:趣味や関心に興じる被(清身的・究学的)教育



1.高校3年間で何を学ぶか

上記のA君メモにせよ、前回の理想的教育システム論(第一回レポート4節)にせよ、
現在において被教育者の人生の重要なポイントとなり、
日本のこれからの教育のキーとなるところは、高校教育である。

つまりは、こういう事だ。
主体的に自分の興味関心を深めていける高校教育があり、
そしてそれをベースに大学進学を行うこと、それが目指す理想像なのである。

高校時代に何を教育され、何を学ぶべきか。
高校時代に「主体的に学ぶこと」を学ぶにはどうしたらよいか。
まずはサロンのメンバーにいるメンバーで、自らの高校時代を振り返ってみた。

埼玉県内髄一の進学校の進学コース出身者で受験を経験した者は、
高校は受験勉強一色だった記憶しかないという。
一般的な高校では1~6,7限までしかないが、そのクラスは0~9限まであったといい、
下校時間のギリギリまで高校で授業があったそうだ。
人によってはその後に予備校にいくというのだから、本当に余裕がない。
授業の内容も受験のために確立されたカリキュラムを与えられ、
科目選択の幅は殆どないというほどの状況だったという。
また、世界史の先生が理系出身者だったため、世界史の時間に科学史という名目で、
実質的には化学の授業ではないか、というようなこともあったそうだ。
世間で世界史や情報の授業の未履修が問題になる少し前の話である。

もちろん得る知識は大量にあったが、目的意識がなくカリキュラムをこなすだけの生徒や、
詰め込みの教育が性に合わない生徒は、成績の伸び悩みが見られたという。
上手くそのシステムを活用して受験教育を受けた者でも、
その期間で他に何ができたかを振り返れば、
受験教育の幅の狭さに疑問を呈さざるを得ないという。
教えている先生も大変で、なかなか長く続けられる人は少ないという。

さらに、志望する大学の決め方にも問題がある。
もちろん大学を目指すきっかけはそれぞれだろうが、
高校生に開かれた大学の情報というのはあまりにも少なく、
学びたいことをするために大学を選ぶという状況ではないという。
また、国内にこれだけ沢山ある大学の個々の専門性のレベルにも疑問を差し挟む余地がある。
何か専門性のあることをやろうと志せば、結局のところ大抵の学問について
旧帝大を始めとした有名大学でなければ専門的な勉強ができない場合が
少なからずあるというのだ。
というのも、少子化の時代を迎えて大学の倍率はどんどん落ちている。
東大をはじめ大学合格点の敷居がどんどん下がっており、
それと共に合格者のレベルが下がっているのは想像に難くない。
不況で地元志向が高まり、名門大の吸引力も落ちつつある。
そうすると、それぞれの大学が同じような学生を抱えることになる。
大学で専門的な教育が上手くいかないのは前回のレポートで説明したとおりである。
ともあれ、大学の専門性がブランドの売りにならない時点でどこか歪んでいるのだろう。

他方、附属高出身者が多い神保町サロンでもあるので、
附属高校に於ける高校時代の振り返りはどのようなものであったか。
附属高では受けられる教育の幅がかなり広く、
また時間に余裕があるので自分のしたい勉強ができる。
例えばある高校では、20以上の語学、図書館学や博物館学、
古典研究から超ひも理論までもを高校時代に学ぶことができる。
高校時代から、大学の特定の専門分野の基礎知識の教育を受けることもできる。
先生が高校で研究を続けている場合もある。

サロン参加者の出身附属高が何れも放任主義的な学校であり、
故に主体的な教育の受け方を知っていると言える。
すなわち、以下のようなことである。
附属高生は受験などの目標がないので、勉強することを強制されない。
勉強することを特には強いられない教育環境の中で勉強をするということは、
自分の中で勉強することのモチベーションを見出さなければいけない。
故に主体的に学びの意義を見出す癖がつくのである。

実際の例として、こんなことがある。
某附属高校出身の学生は真面目だと言われるのだが、
実際はあまりそんなことはないと当人たちは思っている。
しかし、エグいレポートなどが課せられた時に、
他の学生達は何とかして適当に済ませてしまおうとするのに対し、
某附属校出身の学生たちはしっかりとそれに取り組む。
何故かと言えば、エグいレポートが出ても、
その課題の中に主体的に学びを見出す癖が発揮されるので、
積極的に取り組むからなのである。

先程、「附属高生は受験などの目標がないので、勉強することを強制されない」と書いた。
これは諸刃の剣である。もうお察しのことかも知れない。
主体的に学ぼうという姿勢を持つ生徒はよいが、
問題はそうでない生徒もいるということである。
附属高で主体的に学ぼうとしなければ、勉強することを強制されないので怠ける。
ギリギリの成績で卒業して、無目的に大学に入ってしまう附属生も少なくない。
それで大学に入ってから、附属生は馬鹿呼ばわりされる事態になってしまうのだ。
一部では真面目と評され、一部では馬鹿呼ばわりと、附属生の二分化も顕著だ。

至れり尽くせりのカリキュラムをこなすだけの、進学校の教育。
自由放任の中でややもすれば学ぶことを忘れてしまう、附属校の教育。
あるべき高校教育の姿は、何処にあるのだろうか。



2.総論を知り、各論を志せる高校教育

さて、大学進学に向けて主体的な学びを獲得するためには、どうしたらよいだろうか。

先程の進学高校と附属高校、そして前回の高専という各種の高校の、
それぞれの強みStrengthの中に、見えてくるものがある。

進学校の強みは、特定の教科の知識を受験という名目でどんどん詰め込むことである。
受験に特化したカリキュラムが用意され、迷うことなく授業を真面目に受ければ
生徒はどんどん頭が良くなる。受験勉強に対する専門性を身につけた、
受験のスペシャリストになるのだ。

附属校は、広くあらゆる教科を選択でき、主体的に学ぶことができることが強みだ。
また、大学の専門的分野の導入も受けることができる。
広く主体的な学びを知りながら、自分の関心事が教科の中に見つかれば
そこから学びを深めていくいことができるのである。

高専はなんといっても専門性が強みだ。
16歳から専門的な分野を深めていくいことができ、
その分野のエキスパートを目指すことができる。
目的意識が合致すれば、スペシャリストになるのにこれほどいい環境はない。

ここで見えてくるものはなんだろうか。それは二つある。

一つは、学問体系を学ばないということである。
よく見ると、どの高校でも用意されているのは学問の一部を切り取った教科である。
読み書き算盤の延長にある教科ばかりなのだから、当たり前といえばそうだ。
しかし、主体的な学びを獲得するためには、
自分の関心事がどの学問に結びつているのか分からなければならない。
それが運良く高校の数学や社会などの教科に結びついていればよいが、
この多様化の時代では、なかなかそうも行かない。
自分の関心事がどの学問に結びついていて、
それにたどり着くためにはどの教科を受ければいいのかということを
生徒が主体的に見極めるために、学問体系を教えることが実は不可欠なのだ。

もう一つは、一般的な教科と専門的分野の学問への橋渡しがないことだ。
ツールとして学んだことと、ツールを必要とする学問の間の橋渡しがないので、
高校教育が無目的化し、大学教育が低レベルなものになってしまうのである。
中学までやってきた一般的教育(読み書き算盤)は、学問のためのいわばツールである。
現在の高校では、そのツールの延長線上の事をやっている。
例えば数学なら、多項方程式や多様な関数など。
読み書き算盤のレベルであれば日常で使うため、
ツールとして学ぶことに異議は差し挟まれないだろう。
しかし、高度なツールを学問の中でどう使うかが分からないまま、
高校の授業が進んでいくと、無目的な勉強になってしまうのは明白である。
(だからこそ受験を目的化している側面もあるかも知れないが)
他方、大学に入って学問をやり始めると、
今度は必要なツールが身についていないのでたいそう苦労することになる。
そもそも無目的に大学に入った人は、ツールを身につけるのではなく、
自ら探求しなければならないので途方にくれる。
そこで彼はこう呟くのだ。「大学の勉強がなんの役に立つっていうんだ……」
しかし彼にとって残念なことに、学問はツールを身につける手段ではない。

これらを解決するには、
学問体系を知る→関心事と学問を結びつける→必要な科目を勉強する
というプロセスを経ることができれば良い。

つまりまとめると、こういう高校教育が理想である。
まず一般的教育が終わった中学卒業か高校入学の時点で、学問体系を教える。
すなわち、どの学問でどのようなことが究められていて、
それぞれがどのように連関しているのかを教えるのだ。
次に、生徒は色々な分野の中で自分の関心事を探しながら、学問に結びつけていく。
最後に、生徒がこの先大学で学んでいく分野を決めた時点から、
その専門分野の基礎的知識を教えていく。
例えば経済なら政経、微積分など。商学なら政経に現社など。
理工なら物理化学、医学なら生物や倫理の科目が有益だろう。
そのようにすれば、目的意識を持って勉強することができる。
高校で大学の専門科目の基礎知識を叩き込めば、
自ずと受験にしろ大学にしろ質の向上につながるだろう。
スペシャリストばかりを輩出してジェネラリストが減ると憂う必要はない。
ジェネラリストにおけるスペシャリストを求める学問もあるのだから。

また、各種の高校は、どの時点から生徒が専門分野に入るかによって、
その機能や特色を活かしながら棲み分けが出来るだろう。
すなわち以下のようにすればよい。

高校 高専 附属 普通高
1年┳┬  ┬  ┬
  ┃│専 │多 │多
  ┃│門 │分 │分
  ┃│的 │野 │野
2年╋│教 │概 │概
  ┃│育 │論 │論
  ┃│  ┼  │
  ┃│  │専 │
3年╋│  │門 │
  ┃│  │的 ┼
  ┃│  │教 │専門的
  ↓↓  ↓育 ↓教育
大学 ←────────→
など 専門的    総合的


上記の図のように、早い段階から自分の専門を定めている人は高専に入ればよい。
また、考える人は高校生の間目一杯悩めば良い。
ただし、図の下にあるように、早い内から専門を定めている人ほど専門的内容、
遅くまで悩む人ほど総合的内容の学問に進むことがよいのは明白なことである。
左に行くほどスペシャリスト、右に行くほどジェネラリストの道に進むことになる。

学問の専門性が細分化すれば、受験戦争も勢いを減ずるので、今のように無目的に
ガツガツやるようなことはなくなるだろう。
そのかわり、専門と決めたことに関してはよりしっかり取り組むことで、
よりよい大学で専門性がを深めることができるようになるということである。

大学のビジネスと言う意味でも、
今までは卒業生の実績や就職率、資格などで差別化を図っていたのが、
こうなれば学問の専門性で競う事になる。
伝統ある大学は伝統的な学問を売りにするだろうし、
新興大学は細分化されたニッチな学問をしっかり網羅することになるだろう。
そして生徒が魅力を感じる学問をもった大学を目指せば良い。
もちろん、それは大学側も積極的に高校に向けて
自分たちがやっていることをアピールするようになるだろうし、
高校生もそれを知ろうとするだろう。



3.学問の分類とここまでのまとめ

学問の分類がどのようなツリーになっているかについても議論に上がった。
まだ結論はみていない。
曰く、以下のようなものが一例である。

学問と価値
  ┌哲学
学問┤  ┌応用科学┬実践
  │  │   &bsp;└政策 <価値を扱う>
━━┿━━┿━━━━━━━━━━━━━━━━━
  └科学┼経験科学┬人文 <価値を扱わない>
    &bsp;│    ├社会
     │    └自然
     └先験科学

方法と領域
方法│経済、社会、歴史等←〇〇学的方法を使う学問
──┼─────────────────────
領域│商学、経営、教育等←領域だけ


コンピュータやロボットの登場で、文系と理系の敷居が
かなり低くなっているという話もあった。

また、前回の実業大学と専門大学についてだが、
大学院は法律上もうそのようになっているのだそうだ。

大学院研究科:修士 ←専門(究学的)
ex)経済研究科、数学研究科など
専門職大学院:専門士←実業(職業的)
ex)ロースクール、アカウンティングスクールなど


浪人生時代は好きな勉強ができてよかったと、
先述の進学校出身者は語る。
高校で自由に振舞っている一癖ある奴が、
大学入ってから大きく開花する。

主体的に、目的意識を持って勉強することが、
一番大事なことであるということだ。

受験システムを何か神格化し、
受験様にわが子を捧げ、
受験様がわが子を救うのか救わないのか教えたもうと、
高校の教師に縋り泣く親が、本当にこの世にいるという。
信じられないことだ。

そんな馬鹿げたことを終わりにし、
教育を受ける子ども自身がどのようにすれば主体性を獲得し、
目的意識を持って勉強できるのか。
ここまではそれを実現するための方策と意図を、
ある程度明確にできたといえよう。



4.専門学校と芸術について

最近、専門学校を卒業してもその専門を活かす職に就けないので、
折角専門で学んだことが社会に出てほとんど活かせないということがあるそうだ。
そもそも不況の折で、音楽や絵画などに向く資本が少なく、
芸術の仕事で食っていける人はごく一部だという。
それでも昔は結構いたのだが、今では食っていけないレベルが
本当にヤバいほど食っていけないので、芸術職などは就けないという。
また、そのようにして文化が衰退している中なので、
少し秀でている人がいると、あまり上手くなくても持ち上げられてしまう。
そのことによって本人が満足してしまい、
それ以上のレベル向上が成しえない場合も多々あるそうだ。
現代社会の功罪というか、即物的な結果を周囲が求めるあまり、
時間をかけて芸術を磨くプロセスが取れないのだそうだ。

また、マスメディアは近年、芸術を芸術として評価せず、
その周辺の物語をいかにもに仕立て上げ見せることで、
芸術そのものの価値を翳ませてしまっている。

日本が大切に育ててきた文化や芸術は、今後どうなっていくのだろうか。



5.勉強をしない大学生

昔の大学生は云々。今の大学生は云々。延々繰り返されてきた議論だ。
しかし、本当に今の大学生が、特に勉強をしていないとすれば。
以下は思想哲学研究会の会合のメモを踏まえて、サロンで議論されたことである。

ラカンの考えを借りれば、人間とは常に欲望を持って生きる生き物である。
言葉を持ち、見聞きしたものを分類し、自分とは違うものであると定義づけた以上、
それら全てを支配できないことは明確である。
しかし人間は全能でありたいと願う。ゆえに人が欲望を手放すことは無いのだ。

さて、人は言葉でいろいろなものを定義している。自己も然り。
自分は誰それである。自分は何処どこに所属している。
自分は何時いつに締め切りの仕事がある。などなど。
その言葉で形成されている世界をラカンの言葉で象徴的世界というのだが、
それが自分自身を縛っている場合が多々ある。
あなたも心当たりがあるのではないだろうか。
物事が定義されると、それ以外の想像力が奪われてしまうので、
非常に息苦しくなるのだ。

情報化の社会になり、あらゆること、複雑なことや分からないことが、
言葉によって定義づけされるようになった。
今までならなんとなくやり過ごせたことが、
言葉という石となって次から次へと胃の中に詰め込まれていくのだ。
それが現在の文字による情報化社会である。

デカルトは「困難は分割せよ」と言ったそうだが、
自分ではコントロールできない石をどんどん胃の中に詰め込まれていく、
それは不満と欲望が無尽蔵にたまっていく状況だ。
石を分割して取り出してくれる医者はほとんどの人にとっていないだろう。
その定義付けられた石を絶対のものだと思わずにやり過ごせればいいのだが、
それができないと不平不満からくる欲望はたまっていくばかりだ。
昔であればそこまで情報が多くなかったので、不平不満はたまらなかった。
情報が無いことに欲望を抱くことも無い。
それがたまったとしても特に逃げ場も無かったので、それはそれとしてあっちへやり、
自分の道を進むことができた。
しかし現在、あまりに多くの情報が襲ってきている。大学生もそこから免れない。
しかも、逃げ場がある。自分が全能感を味わうことができる逃げ場だ。
仮想現実で行われるゲームである。

たいていの人は、あまり欲望をためても吐き出す先が無いので、
そこまで欲望を溜め込まない。
しかし、ゲームは欲望を満たしてくれる。全能感を与えてくれるのだ。
そうすると更に欲望を持つ。前述したように人間は欲望を持つ生き物だからだ。
そうするとどんどん欲望が肥大化して、ゲームから離れられなくなるのだ。
その欲望は、全能感を満たすこととリンクして肥大化しているので、
そこまで全能感が満たされていない一般人よりはるかに大きな欲望となる。
それが何かの拍子に他の方向に向けば
他が追随できないほどの非常に大きなパワーとなるが、
他の方向に向かないうちはどんどんゲームの世界に没頭してしまうのだ。

本や映画、テレビまではまだよかった。主人公に自分を投影して、
自己の欲望を満たしたとしても、それはその物語が終わるまでの話だ。
しかし、ゲームは終わらない物語である。
しかも、得ることができる全能感が桁違いだ。
今の学生は、ゲームで欲望を満たしているうちは、
あまりに非生産的であるといえるだろう。
昔の学生と比べても、である。

言葉が物事を狭めていく事例は、某巨大掲示板でも見られる。
某巨大掲示板で「リア充」という言葉が生まれたときは、
部屋に引きこもっている人に対して部屋を一歩でも出れるなら、
そこに広がっている社会と接点を持っているのだから「リア充」、
すなわちリアルが充実している人である、といっていたのだ。
それが多様な社会で広まるにつれ、色んな枠組みが与えられる。
社交的であること、趣味があること、彼女がいることなど……
なぜそれらの枠組みができたのだろうか。

リア充、という言葉が使われるときは、大抵「自分はリア充ではない」
というように否定の語に使われる。
自分をリア充ではないという枠の中に閉じ込めて、
リア充を妬みの対象に論うために使われるのである。
もともと自虐的な言葉だったのが、
リアルを充実させたいという欲望を持った人間たちが使うようになってから、
自分達の欲望の対象をリア充に当てはめていったのである。
すなわち今や一般人がリア充という言葉を使うときには、
自分が持っていないものはリア充の持っているものです、
というアピールに使われている。
リア充の定義を細かくしていくことはすなわち、
自分は何々ではない、と自分を否定する要素を丹念に拾っていく作業なのである。

最近のVIPは神々の遊びが感じられないという意見も出たが、
それは君子は和して同せず、小人は同じて和せずということではないだろうか。
低年齢化が進んでいるのであるから自然なことだろう。



6.学生ひいては国民の意識低下について

日本人の意識の低さが諸外国から言われている。
国中に蔓延するあきらめ、冒険をしないムード。
皆が裕福になって怠けるようになったからそうなった、
などということではないだろう。

これは、ある種の「刷り込み」が行われているためであるというのが見解だ。
自虐史観からくる自国否定や、マスメディアによって連日報道される負の情報。
日本の国としてのブランドやアイデンティティを、
常に否定されながら生きているということが、
国民のモチベーション、意識の低下を招いているようだ。
実際、自分はだめだと思っているとやはりだめになってしまうように、
日本はだめだと飽くことなくマスコミや一部の教育者が言い続けてきたことで、
ゆとり世代にはびこる厭世観、ついには悟り世代が登場する始末である。

しかし、この刷り込みというのはなかなか気づくことができない。
戦時の天皇絶対主義も、小さいころにそれを刷り込まれたうちのじいさんは、
子供のころは天皇のために死ぬことに何も疑問を持っていなかったという。
戦争が終わって初めて、マスメディアや国がそういうことを煽っていたことが
市井の人々にも分かるように明るみに出たのだという。

人は否定され続け、貶められ続けるとあさましくなる。
今の日本人は昔と比べて品性が失われているとも言われる。
これから新しい方向性を見出して進んでいかないことには、
何時までたっても日出づる国に戻ることはできないだろう。

ゆとりだなんだと貶められ続けてきた学生も、
これからは既存のシステムを変えながら
前に進んでいけるという確信を持って、
自分の道を切り開き、明るい気持ちで進んでいくべきだろう。
それを引き止めるような大人の言葉に耳を貸す必要など無い。
目的意識をもって、主体的に人生を歩んでいく。

考えてみれば、神保町サロンに集う連中は、
誰もかもそのように目的を持って進んでいる人間である。
だからこそ、前向きに議論が進んでいくのだろう。
次回以降のサロンも、楽しいものにしたい。

以上、第二回の神保町サロンレポートである。



はい、なるほどね。やっぱり長いなぁ。
今回は議論が散逸したわりにはまとめやすかったような。

是非次回以降も充実した交流ができればと思います。

また、参加された方は一言でもいただけると、ここの内容が充実してありがたいです。


それでは。

 

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2010年

3月

27日

第一回神保町サロン

第0回サロンに引き続き、

3/25に行われた第1回のサロンのレポートです。


参加者:4名
場所:神保町「さぼうる」・駿河台下「スターバックスコーヒー」・渋谷「麻布茶房」
テーマ:大学教育について

第1回目のサロンは雨の木曜日に開催されました。どの時間も二人で、人とテーマを引き継ぎながら話が展開
されました。
以下、レポートします。





0.高等専門学校について

大学の話を始める前に、高専の話をしたのでこれに触れる。
高専といえばその昔、その高度な専門知識と技術を持っていることで、
製造業をはじめとした企業から引く手あまたであった。
高専生自身も高校大学とはひと味違うというプライドを持っていたものである。

しかし近年では、会社の研究開発などは高専の卒業生はやらせてもらえないという。
会社が必要としている専門性は、大学院に行かないと獲得できない時代なのだそうだ。
高専の先生の話すところによれば、高専は今や高校を5年間行くところになっているとも。
果たして、高専の魅力は何処に行ってしまったのだろうか。

高専を5年間通った卒業後、大学3年に編入できるシステムがある。
すべての大学が門戸を開いているわけではないが、
専門科目、英語、小論文と面接だけで入学できる。
科目が少ないので、受験勉強に貴重な時間をいくらも費やす必要がない。
そのために、高専進学を選択する人もいる。

そのようにして高専から大学に進学すると、確かに高専生は一般の大学生よりは勉強しているが、
大学で積極的に勉強している学生には及ばないという。

高専は5年間同じ環境であり、あまり開かれた環境ではないことや、
大学ほどの多様な講義があるわけではないことがその理由ではないだろうか。
研究の細分化により、専門性は5年間ではとても身につかない。
高専の個性は、とても宙ぶらりんなところでとどまってしまっているのだ。

特に国立の高専などは、最近の開かれた学校の流れにもついていけないという。
独立行政法人が管理していることが腰の重さに関係しているのかどうか。

高専を目指す人は、入学する時からある程度方向性を持った人間でないといけない。
方向性を持って主体的に動ける人間は、
高専の5年間を専門性を深めるために有効に使えるだろうし、
大学編入などの多様な手段もある。

高専自体も、どのような機能を持った学校となるのか。
5年間で専門家や職人を作り出せない高専があるとすれば、
一学校としてどのようなスタンスを取るのか、
何がしかの魅力を打ち出して行く取り組みが必要なのではないだろうか。

その上でサロンでは、附属高から大学の7年間に一貫した専門性を持ったことを学ぶ、
そういう形がこれからは良いのではないだろうか、
ということが言われた。



1.大学とはどのような施設か

さて、大学の話である。
大学を取り巻く環境が日々変化している中で、大学そのものの役割も変化している。
昔の大学といえば、「学問」をするための場所、ということだった。
しかし、近年はだいぶ様相が異なってきている。
果たして大学とは学問だけをするためのところなのだろうか。

大学生は、講義を受ける他にもバイトやサークル活動に積極的に参加する。
近年は奉仕活動や地域活動などを活発にやっている学生も多い。
3年生からは講義そっちのけで就活をする学生ばかりだ。

大学の形態云々ではなく、そのように大学という場は機能している。

そもそも大学は学問をする機関とはいえ、
学部生の間は殆どの大学で学問らしい学問はできない。
慶應のゼミも一部はただのサークルのようなものだし、
勉強している内容も実は教授の教科書を精読した方が
高い知識を身につけられるものだったりするのだ。

学生の本分は勉強で、本来なら就職活動などすべきではないという向きもあるだろう。
地域の老人が憤慨した様子で語っていた事を思い出せば、
その昔は、ゼミや研究室が一人一人の学生に就職先を世話していたそうだ。

その老人は、大学が怠慢で学生に口利きをしないから、
学問が疎かになり就活が厳しくなるといっていたが、
今の時代では無論それは叶わないだろう。

就職が厳しい以上、学問より就活を優先せざるをえない。
大学全入時代に企業へ就職するには多くの人が大学に入らざるをえない。
就職するために大学に入り、就職するために単位を取る。
だから学生の本分は就活たり得るのであり、
実際に現在の多くの人がそうなっているのである。


暴論だが、もし大学が就職のための機関であれば、
今の大学生が行っていることは、就職に成功しさえすれば大抵是認されてしまう。

例えば、テニサーに入り浸ってナンパに旅行と放蕩三昧の生活をしていても、
それが営業の力に結びつくかも知れない。
三日間徹夜して麻雀することも、SEになって激務をこなすための体力作りといえば
屁理屈がついてしまう。

これらは極端な例だが、実際問題として、
社会人のマナーを身につけることが講義の単位になるとか、
ボランティアをすることが単位になるとか、
凡そ大学で行う学問というところから鑑みると
それを大学でやる講義として妥当なのか一考の余地がありそうなものでも、
一部ではたいそう賞賛されているということだ。

某大手新聞でも一面の記事で、
大学は学生に一年生のうちからインターンなどをさせて、
しっかりと職業訓練校となるべきだ、などという論をぶっていた。
論の是非はともかく、現在の大学の学問教育が社会のニーズにマッチしていないことが
端的に現れている事例だ。

会社にしてみれば、人材の選考を自分たちでやらずとも、
大抵二十歳までに2回か3回の受験と就職活動で、十二分にふるい分けがなされるわけである。
さらに今の時代はそこまでふるい分けされた人でも余るというわけである。
故に大学で勉強をするかしないかと、会社のニーズに会う人材かどうかは別問題で、
受験と就活と何かゼミのような活動経験さえあれば、大学などなくてもいいようなものである。
なるほど、就職したい学生は何回もの受験と早くからの就職活動を乗り越えなければ
希望の就職には手が届かないというわけだ。

さて、ここで我々は考える。
果たして大学は単なる職業訓練校としての使命を負うべきなのだろうか。
それとも学問をやる機関に戻るべきなのだろうか。
学生はサークルなどと両立させてバランスよくモラトリアムを楽しむべきなのだろうか。
バイトやインターンで社会経験を積むべきなのだろうか。
4年間という限られた時間で、大学という環境がどのように機能するべきなのか。


サロンの面々はここで、
大学という形態が担っている機能がどうやら多岐にわたっており、
それらが綯い交ぜになって議論されているようだ
ということに気づき始める。

「機能と形態の断絶」と現代を評したベルナール・チュミの言葉は、
建築物以外にも当てはまるのかもしれない。



2.教育の分類と大学の位置づけ

教育と一口にいっても、その内容は色々だ。
大学教育、という大雑把な括りだけで議論を続けると、
出来の悪いピザのように、いろんなものが散らばっているだけのものになってしまう。

そこでサロンでは、宮原誠一の考えなどを参考にしながら、
教育の形を以下の4つに分類した。

○一般的教育
○清身的教育
○職業的教育
○究学的教育


それぞれの定義は以下の通りである。

○一般的教育
いわゆる読み書き算盤といわれるものを指す。
この日本社会に生きていく上で最低限必要な知識を授ける教育のことである。

○清身的教育
哲学や倫理、思想、教養を学ぶものである。
如何に生くべきか、物事をどう考えるかということを考えさせる教育である。

○職業的教育
社会の中で稼ぎ、生きていくための知識や技能を学ぶ教育である。
ちなみに、これのみを指して実学というのは間違いである。
実学とは、「人間普通日用に近い」学問であるからして、
ここでいう一般的、職業的、究学的学問を全て含めた学問を指している。

○究学的教育
専門的研究などがこれにあたる。

さて、まずは以上のように4つの大枠を設けた。
凡その教育の場はこれらのいずれかの性格を持っていることは、
ほぼ間違いのないところであろう。

 

現在の既存の大学や教育機関等を、これら4つの軸に分類してみるとどうなるだろうか。

○一般的教育
小学校~高校が読み書き算盤を教える場としてまずある。
高校を入れるかどうかは議論の余地がありそうだが、
高校はあくまで後期中等学校である上、
現状では中学までの範囲をできない生徒を高校がフォローする形になっているため、
含めることが妥当ではないだろうか。

英検・漢検なども、読み書きの基本的技能を定着させる機会として入れるべきであろう。
現在語学といわれているものの多くは、究学的・職業的なものではなく、
一般的教育の範疇に入るものと考えられる。

○清身的教育
ICUや学習院、聖心や白百合などの名門女子校などは、これに当て嵌るだろう。
高校の部活動や都立高の奉仕の時間も清身的教育を行う機会を与えている。
宗教系学校や宗教自体も、清身的教育を行う機関であろう。
また、ボランティアを行う団体や、社会活動をするNPOに若者が入れば、
それも清身的教育の機会になるかも知れない。

しかし、実際のところはしっかりと清身的教育を行う機会が設けられているかというと、
そうではないかもしれない。
清身的教育を担っているのは、根本的には個人を取り巻く社会、コミュニティである。
その社会がどのような道義のもとに廻っているのかを考え、議論することから
思想や価値観が醸成されていくものである。

現代ではその道義の軸が曖昧になっている上、若者があまり議論しなくなっている。
普通のミーティングですらP2Pを使った文字と音声のやりとりだけで
済ませようとしているぐらいである。
昔のように、哲学書を読みあさることがかっこいいという風潮もない。
イデオロギーが対立するのではなく、散逸、もしくは霧散する時代なのだ。
若者を糾弾するわけではなく、清身的教育の機会が少ないということが言いたいのである。

学生闘争の時代であれば、大声で議論を交わし、
自分の生き方、社会のあり方を考え、何々論にかぶれていることがかっこよさであった。
江戸時代まで遡れば、寺子屋で論語などを用い、
一般的教育と並行して清身的教育が行われていたのだ。
現代に、それに代わる場があるだろうか。

そういった意味では、手前味噌で恐縮だが、
この神保町サロンなどは、清身的教育の機会として大変よい場であると言えるだろう。

○職業的教育
明治、中央大学などがとても力を入ている。慶應のSFCなどもこれに当て嵌るだろう。
マーケティング戦略や起業論など内実は職業的教育であるものも多い。
また、資格スクールや会計大学院、法科大学院がこれに当て嵌る。
OJT(On-the-Job Training)は正しく職業的教育と言えるだろう。
(ビジネス)英会話スクールなどもこれに合致するかも知れない。

専門学校も職業的教育機関であるといいたいところではあるが、
知人に聞くところによれば、就職がないので専門学校で学んだこととは
関係ないところに就職する学生ばかりだという。
これではなんのための専門学校かわからない。

とはいえ、学校医教育法でいう各種学校のようなところは多くが
職業的教育の場であるだろう。

余談ながら、立教大学の観光学部は、
もともと広い視野から究学的に観光を研究する目的で作られたが、
近年ではかなり職業的教育の色が濃くなっているという。

さらに、前述した昔の高専も、間違いなく職業的教育機関であったであろう。

また、サロンのメンバーの中には、バイトで職業的教育の機会を十二分に享受し、
大学2年生にして既に内定を取り、大学は道楽で行っているというような者もいる。
この場合はアルバイト先が自然な職業的教育機関であったといえる。

昔の丁稚奉公なども、職業的教育を小さい頃から叩き込むシステムだったのである。

そもそもローマ時代に生まれた大学には、
弁護士や政治家になるための法学、
医者になるための医学、
牧師や先生になるための神学、
この3つの職業的教育しか提供されていなかったのである。

○究学的教育
旧帝大、早慶の3年以降や、多くの専門的な大学院、研究所、シンクタンクなどが当て嵌る。
他に究学的教育を受けられる場はあまり想像がつかない。

さて、ここまで少し退屈な分類作業を行ってきた。
これからはまた本論に戻り、大学教育について考えてみよう。



3.大学における職業的側面と究学的側面の対立

端的に言い切ってしまおう。今、社会が必要としているのは職業的教育機関だ。

なぜ昔は研究会や高専から就職先の口利きができて、現在はできないのか。
先程OJTという言葉が出てきたが、
仕事の細分化と専門性の高まりによって、やや専門的で埃を被ったような座学の必要性が、
ここに来てぐんと低くなったからだ。
それよりも特殊でハードな業務をこなせる体力と忍耐力を持った体育会の人間や、
プログラミングやデザインなどの高度な技術を持った人間や、
サークルなどで高い社交性と協調性と行動力を身につけた人間が重宝されるようになったのだ。

なるほど、そんなことは昔から当たり前だと思われるかも知れない。
しかし、今は人材が余っているのだ。
今までと同じぐらい素晴らしい人間で、成績にAが並んでいるだけではもはや就職できない。
座学などやっていないで、就職に必要な高度な技術や専門性を持ちたいと
学生が思ったとしても至って自然なことだ。
そしてその彼らが、やや難解で実用に足らず、埃を被った講義に背を向け、
職業的教育を求めインターンやサークルに勤しむのは自然なことである。

皆、われ先にとダブルスクール(大学と資格学校の掛け持ち)をやったり、
インターンやサークルやNPOスタッフなどで何か社会経験を積もうとする。
学生たちは職業的教育に飢えているのだ。

さて他方、究学的教育を受けたい大学生にとっては、これほど迷惑な話もない。
学部生の時に自分が学びたい授業を取っても、
その授業を受けている他の学生は勉強する気がさらさらない連中である。
畢竟、教授はある程度授業の質を落とすことになる。
究学的教育を求める学生にとっては物足りないことこの上ない。
それだのに職業的教育を求める学生は、その程度の講義も難しいという。

大学の学部というのは、職業的教育を受けるにも、究学的教育を受けるにも
十分でないシステムになってしまっている。帯に短し襷に長しという奴だ。

これについて先述の宮原誠一は、
大学における職業的側面と究学的側面を分けるべきだと論じているそうだ。

諸外国に目を向ければ、例えばドイツの学校制度では、
職人になるか大学に行くかが早期から明確に分かれるシステムになっている。
職人コースの進路では中小企業が多いが、
企業と学校が協働で教育を行う形で、職業訓練と理論教育が並行して進められるので、
高い技能を持った学生が社会に輩出される。
また、大卒者の就職では大学名ではなく、卒業研究で何を学んだかが重視される。
大企業に就職しようと思って大学に行ったものは、
大学で何を学ぶかを明確にし究学に努めなければ就職はできない。
大学生の本分が学問であることは、ドイツでは正しいのだ。

またフィンランドでは、高校から単位制の教育が取り入れられている。
大学の入学のための試験は論述式で、大学に入るためには何を学びたく、
何を今まで学んできたのかをしっかりと見つめる必要がある。
その分、大学は究学的機関として確立されており、
その門戸も広い世代や階層に開かれている。

それに比して日本の大学というのは、
学生の殆どは究学の精神を持たず、
職業的知能や技能も身につくわけではなく、
なかなか不合理なシステムになってしまっているのではないか。
頭でっかちで中途半端な人間ほど使いにくいものはないが、
今の大学はそのような人間ばかり輩出する形態になっていやしないだろうか。

会社は不況で人が余っているので、学歴の高いところからチョイスすれば十分である。
学生は少子化で競争率が下がったので、誰でもいい大学を目指せる。
これらの現象をこのように、この20年間の不況と少子化の結果であると、
結論付けるのはなるほど簡単だ。

であるからには、この現状に応じた対応策を考えねばなるまい。



4.理想の教育システムと(究学的)専門大学と(職業的)実業大学

先程の分類を元に、理想的な教育体系を、
現在の6・3・3・4を壊さない形で検討してみた。

まず小学校では、最初の5年間で3R(Reading, wRiting, aRithetic)、
すなわち読み書き算盤と、生活の基本をマスターする。
小学校6年生の時点から、中学1年の内容を始める。
小6+中学3年間では、現在の中学の内容とその復習、
現在の高校で行われている授業の中でも必要で基礎的な
一般的教育の範疇の教育を行う。

そのためには少人数制を採用し、
落ちこぼれても現在の中学の内容までは完璧にし、
進む人は高校の内容をかなり理解できるようにするべきだ。

理解のためには、
やる→わかる→できる→やる……
のサイクルをきちんと回すことが必要である。

昔は、とにかく公式を与えて問題を沢山やるに始まり、
問題を解くとなんとなくできる、その後わかる、
そして次の段階をやる、というサイクルが回っていた。

しかし最近は、わかる→できる→わかる……でサイクルを回そうとしているので、
実際に理解と応用が進まない。やる経験がないので身につかないのだ。
わかる、の後にやる、がないとサイクルが回らないので、
親は皆塾に通わせてやらせようとする。これでは何時まで経っても公立校の面目が無い。

また、わかる→やる→できる→わかる……のサイクルの真ん中に、
考えるという垂直方向のベクトルがあると、螺旋が上り螺旋となり、
前向きな教育につながる。

さて、中学を卒業した後、高校3年間では、
理系文系関わらず人文・社会・政経を中心に清身的教育を行い、
都立高の奉仕の時間のような何らかの形で社会経験を積ませることで、
生き方や価値観についてよく考えさせる。
基本的には高校時代に自らの人生を如何に往くべきかを考える癖をつけさせる。

高校入学までに志を持って進学する者は高専を選べばよいし、
特に理系の高専については、高校からの編入を積極的に受け入れてはどうか。
高校で自分の生き方を考えた生徒が、やっぱりものづくりをしたいと高専に来る、
などということが増えるかも知れない。

大学は、職業的教育を受けるための実業大学と、究学的な事をする専門大学に分ける。
実業大学では、1年生からインターンや社会活動などをしたい人に、
チャンスや単位を惜しみなく与えるようにすれば良い。
社会人に必要なマナー講座や教養講座に単位を多く割り振っても、
職業的教育をするところであると思えば自然なことだ。
もちろん今までの一般教養科目はあって良いが、
前述のように高校時代にやりたい事を見つけていることが前提になっているので、
学生が目的意識を持って受ける、かなり有意義な授業となるだろう。

企業も実業大学と組んで、専門的なノウハウや技術を学生のうちから身に付けられるよう、
サポートしていけばいい。連続した講義として設けるのもよいだろう。
あらゆる企業が大学教育に参画すれば、
それぞれが持っている細分化された専門性が講義として次世代育成に直結する。
細分化で競争率は下がるが、専門性は上がるのだ。

高校の進路指導も変わるだろう。実業大学を目指す生徒は将来何をやりたいかをベースに、
その活動をする企業の専門的な講義が取れる大学はどこか、と考えるようになる。
学生各々がやりたい事を、企業のニーズに沿いながら高い専門性で学ぶことができるのだ。
もちろん、繰り返すようだが、学生各々が実業大学に入る前にやりたい事を明確にできるよう、
高校時代にはしっかりとした清身的教育が必要である。


他方、専門大学では本当に究学的なことをしたい学生が集まる。
そうなれば今の学部の勉強の質が上がるので、入学試験の難易度が上がるだろう。
究学したい科目の専門的なことが問われる試験となる。
結果的に全体的なレベルの底上げにつながるだろう。
大学3年生ぐらいから今の大学院程度のレベルのことができるようになる。


実業大学には企業がOJTの一環と考えて投資し、経営を助ける。
そうすれば、国からの助成は専門大学に重点をおいていけば良いので、
科学技術立国日本の、国力の増強に直結するだろう。


この教育システムでは、エリート教育の問題も直ちに解決できる。
エリート教育に関しては、東大教育学部などは容認派、筑波大などは否定的な認識を持っており、
教育の公平性との兼ね合いが難しい。
しかし、このシステムなら高校時代にある程度の教育のゆとりがあり、
その間に高専などでエリート教育を行えば良い。
高校時代に清身的教育を受け、自らのミッションを見出して生きる生徒を高専で拾い、
清身的教育と並行して職業的、究学的なエリート教育を施す。
そのまま専門大学なり実業大学なりの専門が合致したところにトスしてやれば、
素晴らしい未来への先駆者たるエリートを生み出すことができるだろう。
普通の子供達と何ら違うことない環境の中にありながら、
のびしろを最大限活かせる教育を受けられるので、教育の公平性も損なわない。

現状の問題点、例えば地方にある受動的教育を与えるだけの高校をどうするか、
受験のシステムをどうするか、などという議論からはもはや何も生まれないだろう。

神保町サロンのような、未来のビジョンを放言できる場があまりに少ないのではないのだろうか。



5.最後に
結局、このようにしたいのである。
すなわち、何が欲しくて何がしたいか。
それを明確に見極めながら進んでいける社会でなければいけないということだ。

そして、それを子供たちが明確にするためには、
清身的教育を行う場をきちんと設けることだ。
学校と社会の多様な接点を増やすことと、
子供たちに考えさせること、それだけで実現できるし、現在実現しつつある場もある。

好きと仕事は違う、というところから、好きなことを仕事に、
というモチベーションにつなげようとするのと同じく、
好きと学問は違う、というところから、好きなことを学べる教育のシステムにしなければならない。
一般的教育さえ終われば、あとの学びは主体的に獲得していくべきであろう。


また、学校の立ち位置については、

<社会>
↓ニーズ
[学校]
↑ウォンツ
<子供>

このように、社会のニーズを汲み取りながら、
子供たちのウォンツをそれに結びつける場でなければいけない。
社会にも学生にも相手にされない大学などなんの意味があろうか。


我々神保町サロンにいる学生に立ち返って考えてみれば、
それぞれが現在の教育システムの中で、
自分のしたいことを見つけ、それを主体的に学んでいる。
それが可能なのは、それぞれが世界屈指の大変恵まれた環境にいるからである。

そうでない学生も、誰もが主体的に学びを獲得し、
充実した学びと職業を手にできる社会にするための方策を今回は考えた。

以上、第1回の神保町サロンレポートである。

 


はい、こんな感じです。今回は分量が多いですね。
ICレコーダー欲しいなぁと思いましたが、紙に殴り書いていくのもまとめやすくていいですね。

是非次回以降も充実した交流ができればと思います。

また、参加された方は一言でもいただけると、ここの内容が充実してありがたいです。

 

それでは。

 

 

 

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2010年

3月

21日

第0回神保町サロン

3/16に行われた第0回のサロンのレポートです。

 

参加者:9名

場所:神保町「さぼうる」・駿河台下「スターバックスコーヒー」

テーマ:顔合わせ

 

3/16に第0回目の神保町サロンが開催されました。

入れ替わり立ち代り9人が参加。

大学1年から4年まで、実に5つの大学から、学部も7学部にわたる、非常に多様で個性的なメンバーが集いました。

 

話題は各人の現状に始まり、社会、哲学、数学、音楽、お笑い、IT、合気道、教育などと非常に幅の広いものとなりました。

 

例えば、こんな話。

カフェ「さぼうる」の壁に、モチモチの木の絵が飾ってありました。モチモチの木というのは皆さんご存知の昔話で、国語の教科書に滝平二郎さんのはり絵の挿絵とともに載っていたのです。

みんながモチモチの木がどういう話だったかと考えている時に、ある人が「モチモチの木と三枚のお札の話が区別がたまにつかなくなる」ということを言いました。

三枚のお札というのも有名な昔話で、小僧が山に栗拾いに行くと鬼に追われ、和尚さんからもらった三枚のお札の法力で鬼を足止めしながら寺に逃げ帰り、追って小僧を探しに来た鬼を和尚さんがとんちでやっつけるというお話。

 

そういえば、と、ある人が口を開きました。「イザナギが黄泉の国のイザナミから逃げるときも、3つの物で撃退したのではなかったか」

これは古事記の話で、イザナギとイザナミは日本の国を作った夫婦の神様。自ら産んだ火神カグツチに焼き殺されてしまったイザナミに逢いたくて黄泉の国へ行ったイザナギは、ゾンビ化したイザナミに追われ、必死に逃げ帰ります。その時に、髪飾りから葡萄、髪櫛から筍、黄泉の国の境目に生えていた桃という三種類の食べ物でイザナミの軍勢を巻きました。

そこから、「三枚の札の話の類型は日本神話から見られる」という議論になります。

 

さらに、昨今の怖い話や都市伝説でも「女が追い掛けてくる」「三つのものを使って追い払う」という点が共通している、などという話に。

例えば、口裂け女は「ポマード」と三回いえば追い払えるということや、ひとりかくれんぼで「私の勝ち」と三回言う、高速で追いかけてくるお婆さんがどう、といったこれらの話も、太古の昔の神話の類型を引き継いでいるのではないか、などという話をしていましたね。

 

それ以外にも、いろいろな話をしていました。

 

「人生っていうのは何通りもあるけど、自分の人生ってのは一通りしかないわけでさ」

 

「自分は結局、妄想の世界の中で生きているんではないのだと」

 

是非次回以降も充実した交流ができればと思います。

また、参加された方は一言でもいただけると、ここの内容が充実してありがたいです。

次回からは何かレコーダーを持参して、内容をそこはかとなく書き綴ることができればと思っています。

 

それでは。

 

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