第四回神保町サロン

6/2に行われた第4回のサロンのレポートです。

参加者:5名
場所:神保町「さぼうる」・小川町「サイゼリヤ」・駿河台「マクドナルド」

テーマ:政治と思想



鳩山総理辞任に伴い急遽開催したところ、それなりの人数が集まり盛況な議論となりました。



以下、レポートします。

 

 

 

 

0.イントロ
~正しいブラック・ジョークの使い方~

ブラック・ジョーク。

近年の世知辛い世の中ではなかなか通じない。
ブラック・ジョークは、これを他人に言うと次から倍になって自分に返ってくるという危険も伴う、諸刃の剣。素人にはお薦め出来ない。

ブラック・ジョークを口にすることができる者は、次の四つの段階を超えた、すなわちこういう者である。
まず第一に、自分の強みも弱みも、自分のアイデンティティ、自分らしさの一部として自分の中で消化出来ていることが大前提である。これはある意味での自分のプライドとなる。
そして第二に、それらがどんなことであれ自分の良さとして肯定的に受け止められていなくてはいけない。折角の弱みをマイナスに捉えてしまって人生に活かせない、なんてことはあってはいけない。
それだけできていて、第三に他人に対する思いやりにあふれていること。そうすれば、他人の色々なところ――強みであれ弱みであれ――を須らく肯定的に受け止められようというものである。
第四に、そこまでできて初めて、そこから一つ拾い上げてブラック・ジョークにして投げてやることができるという寸法だ。
即ちこういうことである、ブラック・ジョークとして投げられている言葉でも、その言葉の発言者と言われている対象者の間では、それは肯定的に捉えられている。しかし、それが周りの人には否定的な言葉にしか聞こえない。そのギャップが人を笑わせるのだ。対象者がその場にいなければ、発言者が一般的にマイナスの事象を肯定的に言うだけでそれはブラック・ジョークとなるというわけで……

自分に関する物事を――特にそれがいわゆる一般的にはマイナスに捉えられる物事であった場合――視点を変えて前向きに捉えるためには、2つのことが必要である。
一つは、教養。教養とは、文化的な知識や品位というだけでなく、単なる知識ではない、人間がその素質を精神的・全人的に開化・発展させるために学び養われる学問や芸術などが含まれる。勉強ができると言うのとは又違うことだ。
もう一つは、余裕。余裕のない人というのは、少しでもなにか言われると自分が否定されたような気持ちになってブラック・ジョークを受け止められないものだ。余裕がある人は、それが肯定的に捉えられている側面をきちんと理解して、ブラック・ジョークをうまく切り返すことが出来る。

さてはて、神保町サロンに来ている連中――多くが附属の男子校出身者だったりするのだが――は皆、ブラック・ジョークがお得意なようである。まったく、勉強もせずに喫茶店に入り浸って塒を巻いて教養を育み、甘えた生活で余裕たっぷりと来たものだからいやはや質の悪いものである……などと主催者が曰ってしまっては、もはやジョークにもならないであろう。お粗末さまでした。


1.石田三成の逸話

今日、日本のトップに立つ人間にはどうも色々なことが求められているようである。周りの言う事をよく聞きながら、自分の考えを途中で曲げたりせず、最後まで職務を全うし、国民の意見をしっかり反映する政策を、政治家主導で官僚を使いきちんと実行すべきところはし、そうでないところは良く議論をし……そういう人間が総理大臣に相応しいなどと街頭アンケートで国民は曰うが、お笑いである。ひとりの人間が同時にジェネラリストで全てのスペシャリストでしかもファシストで絶対に正しい方向に導いてくれるなどという妄想、笑止千万である。

石田三成は、とても優秀な武将だったと伝えられる。その中で有名な逸話として伝わっている、次のような話がある。
 三成がまだ若かった頃、彼は石高わずか4百の領主であった。当時有名な領主となれば数百万石を支配する時代であるから、相当にちっぽけな規模である。当然、召抱える家来も高が知れたものとなる。と思いきや、当時超優秀な武将で誰にも仕えることがなかったという島清興(島左近)を召抱えた。彼は秀吉や勝家に、2万石もくれてやるから仕えてくれないかと言われていたのにも関わらず、それを無下にも断っていた程の武将である。三成の上司であった秀吉が驚いて、どうやって左近ほどの者を召抱えられたのかと問うと、三成は事も無げに「4百石で召抱えたのです」と答えた。即ち自分の石を全部くれてやったと言うのである。左近に、2万石で数いる武将の一人として生きる人生より、4百石でもトップとして未来と責任ある地位につけ尊重される人生を選ばせたのだ。領主が昇進していく上で、たった一人の優秀な武将がいるだけでその道は大きく変わってくる。そのための合理的な判断と決断、そして長期的な視野と説得力、そして相手を共感させる力、これらが揃った三成だからこそ出来たことである。
近年の政府は長期的な視野がないため政策の説得力に欠け、自分がやるべき事の合理的な判断と決断ができないまま全てを抱え込み、マスコミに篭絡されて国民の共感を得られず退陣していくことばかりである。

上に立つ人間は、あらゆるスペシャリストとあらゆるジェネラリストを揃え、理想的な環境で合議をさせ、そこで出た最良解を代弁するだけでいい。今の日本にはまずスペシャリストがいない。次に国民の最大公約数を取れるジェネラリストがいない。そして最良解を正しく伝えるマスコミがいない。誰がトップに立ってもぐだぐだな政治体質が変わらないのはこれが大きな原因であろう。


2.政党擬人化

公にするには不適切な内容のため、自粛。


3.党と右と左と

「2大政党制では足りない、2大政党には入らないマイノリティが沢山ありすぎる。」
これを言った人は外山恒一の受け売りと言いながら、せめて5大政党ぐらいはあるべきだと次の5つを挙げた。
・自由(ゆるい保守)
・保守
・社会(ゆるい革新)
・共産
・環境
現在の日本は自民党と民主党の2大政党制だが、それぞれの政党の中でゆるい保守とゆるい革新が綱引きをしあっているような感がある。
社会の中ではもうちょっと幅があり、強い保守はヤクザや右翼が担っている。強い左翼は昔学生運動などがあったが、近年では学生団体や一部の環境系NPO、市民活動団体などがそれら新左翼的な影響を引き継いだセンスで活動の幅を広げていると言えよう。

右派左派の中にも、エリート層の賢い右左から煽動されるだけの馬鹿な右左まで幅があると言える。それらを一括りに考えるのは難しい。
近年の社会的関心の低下から、賢い右派というのはどんどん減ってきている。しっかりとした現状認識の元から社会的理論を構築し、現実的路線で良い方向に進んでいくという考え方はもはや絶滅の危機に瀕している。教育の現場で政経を碌に教えられることなく育った学生たちが多面的な現状認識をできるはずもなく、自然と今の社会とは違う理想的なビジョンを求めるようになる。多くの大人達がそれを見て甘えだ、ゆとりだと云うが、既存の社会構造に則った考えから言えば尤もな批判である。
賢い右派の理論で、あるべき市場の姿に戻すための不良債権処理や時勢に合わせた金融緩和等の経済政策を推し進めた小泉・竹中は功罪両面の結果を残し、国民には負の印象が強く残った。国家理念として強い右路線を打ち出した安倍は時勢に合わず舞台を去り、現実的な右路線を進んだ麻生は多くの成果を出しながらも、マスコミと閉塞感から脱せない国民に引きずり下ろされた。
そのような賢い右派の考え方を絶滅の危機に追い込んだのは、賢い左派の人々だ。彼らは合理的な理想のビジョンを明確に持ち、現状の社会が進んでいる方向とは違う価値観、別の真理に向かって、彼らの持つ正しい理論の元に活動を行う。今日の閉塞感溢れる社会では、既存のシステムの中で足掻くより、新しい時代に向けて、新しい時代に合った云々というのが持て囃されるのも自然なことだ。
しかしながら、非常に合理的かつ理想的で全体的なビジョンを持って、新しい公共や脱55年体制、高福祉の大きな政府を目指すなど大胆な国政改革に取り組んだ鳩山は、多くの国民に全く理解されず早くも政治の舞台を去ることになった。同じ改革を旗印にしていても、小泉が掲げた改革という言葉の意味と鳩山が掲げた改革の意味が全く違うということをご理解いただけるだろうか。
賢い左派は、革新のために多くの馬鹿な左派を活用する。学生団体や市民団体では、ビジョンは持っていないが何か自分が大きなシステムの改革に携わっているという満足感のために活動をしている人が多くいる。 賢い左派はこの人達を上手く使い、着実に革新を進めている。それを指を咥えて見つめており、外野からやじを浴びせるだけ浴びせて社会に靡くのが馬鹿な右派といわれる人々だ。

中学校の一学級を例にとってみよう。授業中なのにがやがや騒いでいるのは、誰かが喋っているからとおしゃべりを始める男の子たち。これは馬鹿な右派と喩えられる。それをこれ見よがしに注意する女の子は馬鹿な左派に喩えられる。あいつはただの目立ちたがり屋だと冷ややかな目線を浴びせながら授業を真面目に受けているのが賢い右派である。賢い左派はもうお分かりであろう、美しい教育哲学に則って授業をしている先生だ。

右派と左派についてもう一度整理しよう。今の時代、イデオロギーというものが見にくくなっているので右も左もないという人もいるがそんなことはなく、これは傾向の問題なのでよく考えたい。
ある問題が存在して、それを現状の理論の中で正しい方向に戻そうという考え方が右寄りの考え方である。新しい価値観を樹立し合理的で理想的な方向に変えていこうというのが左寄りの考え方だ。前者のほうがより現状維持的で、後者のほうがより理想主義的である。


4.精神的か物理的か。感性的か理論的か。

右左や色々な考え方をマトリクスにわかりやすいようにするため、見出しにあるような2軸、精神的か物理的かの軸をx、感性的か合理的かの軸をyと置こう。
精神的――即ち既存の価値観を重視しローリスクな考え方――で感性的な象限に、右派の考え方は位置づけられる。伝統や価値観を重んじ、異端を排除し保守的な考え方のディメンションだ。
その対偶にある、物理的で合理的な象限には、左派の考え方が来る。合理的に導かれた理想は物理的に達成可能である、既存の価値観やシステムは非合理的である。革命を行わなければならない、と。
物理的で感性的な象限に来るのが体制だ。体制は物理的なものだが、理論的に正しい方向ではなく社会感情的に正しい方向に成立している。当たり前のことであるが。
残りの、精神的で合理的な象限に来るのが革命だ。社会感情が合理的に正しい方向を志向し、社会を変えようという精神が共有されれば新しい方向へ社会が動く。次の瞬間、それは既存のシステムと化し、また新しい理論に対してより感性的で陳腐なものとなる。

より精神的な側面を取り扱うのが人文の分野だ。それに対してより物理的な側面を取り扱うのは理工である。また社会的傾向として、精神的でロマンチストなのは男、物理的でリアリストなのが女である場合が多い。精神的な側面は右脳、物理的・理論的側面は左脳が担う。
また、より感性的な行動をとるのは多くがより年上の人で、より若い人はより合理的な選択をしようとする。そこで大人は子供にこう諭すのだ。「確かにその理論は正しい。しかし社会は厳しいのだよ」と。畢竟、若い男性は革命に走り、若い女性はそれを理解し支援する。年老いた男性は変わることを頑なに拒否し、年老いた女性は積み上げたものを守り続けるのだ。社会性向として強ち間違ってもいない仮説のように思える。


5.中休み
~民主党政権になって~

鳩山さんはなぜやめたんだろう。諸説があるが、彼が馬鹿な国民にうんざりしたか、党内で駆け引きがあったか、その両方か、まぁ大方そんな所だろう。
反小沢で空港ハブ化の議論や鉄道の海外受注のためのトップセールスをした前原さん、考えてることはいいんだけどちょっと一人遊びをするきらいがあるかも。政治はひとりじゃ出来ない。
鳩山政権で議論されたあらゆる法案。郵政改正法案で焦点になったのはゆうちょのペイオフ上限の引き上げ。青天井に膨らんでいく国債を買うためには仕方がないと議論を弄しても、日本から資金が回ってこなくなる事を懸念するWTOや、ゆうちょだけ高額預けても大丈夫になるなんて不公平だ、と他金融機関からの反発は強い。
公立高校無償化も、実質的には専門性が低い教育に長期間浸かっていなければいけない仕組みになるのではないかという懸念が払拭されない。勉強ギライの人の選択肢や質の低下の危険性、他の費用が払えず結局高校に行けない子供たち。教育の期間が長くなればいいという話ではなく、何を何のために学ぶのかを教える側の社会がちゃんとわかってなくてはいけない。子供手当てに至っては財源がなくその内打ち切りになるんじゃないだろうか。


6.教育

文系と理系の話はよく出てくるトピックスだ。今回出てきたのは2つ。
一つは、どの学問も使うツールに関しては不問であるが、対象の違いによって理工と人文に分けられるというものだ。例えば、統計や微積分は理系でも文系でも使うツールである、などということである。
もう一つは、対象と方法、人文と社会と自然、この2軸で分類して考えるという方法だ。
人文、社会を対象として探求するものは文系の範囲に入る。自然を対象とするものと、社会と自然の方法を探求するものが理系の範囲となる。人文の方法を読みとくのがアートの範囲だ。

教育学とは何か。
教育学のカリキュラムとしては、凡そ以下のようになる。
基礎としてまず教育哲学、教育史、教育心理学、教育社会学などを学ぶ。次に、教育方法学、カウンセリング、指導法などの技術を学ぶ。その後、自分の専門とする教科や、種種の教養的教科を学ぶというわけだ。
しかし、一番基本の教育哲学のところに教育学の胡散臭さがあるという。それは、なぜ教えるのか、教えるとはどういう事かを学び考える部分なのだが、これには実証性がない。
そもそも、どのような学問にも、その対象の是非に関しては考えないものだ。例えば美術学を先行している人が、美術というものが存在するべきかしないべきかに関しては感知しないのと同じである。しかし、教育学を学んだものは多くが教師になる。研究対象として取り扱っていたものを実際的にツールとして自分が使い体現することになるのだ。
教育学と教育。その関係についてはまだまだ議論の余地がありそうだ。

社会学。これは観察や統計から論理的に見いだせることを導き出す学問だ。

果たして、日本の文系が衰退したのは学徒出陣の影響が大きいという論もあった。


7.中休み2

~世界の黒い霧~
日本がWW2で刷った赤字国債を買っていたのはスイス人の富豪などだそうで、三井などが買っていた額などよりよっぽど多いという噂もある。
日露戦争の戦時国債はポンド建てで売り出し、ロスチャイルド等が大口購入したなどという実しやかな噂もある。
何れも真相は黒い霧の中だ。何に振り回されているのか分からない。


7.ジャーナリズム

学徒出陣の話から、ジャーナリズムの話となった。日本にはジャーナリズムがない事は既に周知の事実のようにいわれているが、果たして日本に客観的な正しい情報を入手する方法はあるのだろうか。なぜ日本にはジャーナリズムがなくなってしまったのだろうか。

問題の根本の一つは、日本が戦時中に行った新聞統制にある。その目玉である一県一紙制というのは事実上現在まで引き継がれてしまっているシステムだ。これは戦時中に紙の節約のため1939年に発令され、朝日、毎日、読売の三大紙以外の新聞社は尽く統合し、一県に一紙だけしか置かないという制度である。それまでは一県に三紙程度あった新聞社がみな統合され、一県に一紙だけになったのだ。また、各社には三大紙の何れかが指導につき、当局の意向に反するような記事を掲載しないよう監視を行ったという。戦後にはもちろん制度が撤廃されたが、弱体化した新聞社が再び分裂することは殆どなく、指導を受けたために各社とも個性を失ってしまった。経済新聞という枠で戦中も発行を認められた日経新聞と産経新聞のみが、三大紙の影響を受けずに今日も続いている。
また、1936年に立ち上がった同盟通信社は、政府にとって都合の良い、集約された情報発信源となった。1945年に解散された後、現在も部門ごとに共同通信社、時事通信社と形を変えながら強い影響力を持っているソースである。
もう一つの問題は、新聞にTV、雑誌にいたるまで、同一資本の元で動いていると言うことである。同一資本である以上、元締め企業の意向に沿う形で情報が発信され、結果的にどこのメディアからも同じような傾向の情報が発信されることになる。但し、これは至極当たり前のことでもある。
これら二つの大きな原因から、日本のジャーナリズムからダイバーシティがなくなり、多面的な情報や客観的な情報が非常に手に入りにくくなったという現状があるのだ。

ただ、ネット上では状況が変わる。中国がGoogleに対して大規模な検閲を行っていたのは周知の事実であるが、それを真っ向から批難していたアメリカもgoogle検索から数万件のアクセス規制を行っているという噂がある。それに対し、日本は一桁しか規制されていないと言うのだ。ソースが見つからないので噂話の域を出ないが、実際に米愛国者法などアメリカでは検閲をしようと思えばできる体制は整っているのに対し、是非はともかく日本ではあまりそういった議論すらなされない。出てくる情報に対しては今のところ非常にオープンな国であると言えよう。


8.戦争について

戦争の発生について考えてみよう。
まず生物学的にもはっきりしているのは、同族同士であれば大規模な殺し合いはしないということである。また、土地に縛られていなければ戦わずに離れることができるのでこれも殺し合いにはならない。
農業が始まってから、農地や資源のある土地の取得を巡って戦争が起こり始めたのである。最古の戦争が肥沃な土地を巡ってのものであったし、最古の刑罰が追放であったことからも納得できる。
土地に縛られムラが形成され、違う部族同士の対立ができて戦争が始まるのだ。

戦国時代のメイン武器は槍だったと言う。しかし、遺跡などから負傷、殺害されている人の多くが矢によるものだったそうだ。やはり同じ生物であるので殺すことに抵抗があるのだ。槍で刺されている人の多くは背中からであり、逃走中顔を見ることなく殺せることがその理由であろう。逆に、向い合ってエイヤーとやっている間は中々殺せないと言うことである。
しかし、それは慣れで克服できることであるといい、米軍などではバーチャルシュミレーションによって殺害による心理的負担になれるよう訓練しているそうだ。これが可能ということはつまり、FPSゲームなどで画面内での殺人に慣れている人は、実際の世界でもFPSをやっていなかった人より殺人に対する抵抗が弱いということである。
WW2の時は、8割の人が人間に対して銃を引けなかったと言う。実際は上位2割の人が8割の戦果を出していたと言うことだ。


9.中休み3
~若者と政治~

「今の日本は若者に対して徹底的に不利である。しかし今は全てを覆す時代ではない。今の仕組みの中で革命を起こさなくてはならないということだ。例えば、若者の柔軟で豊かな発想を汲み取らなくてはもう日本の未来はないと年寄りたちに思い知らせるようなシステムやイベントを開催し、人数では年寄りに圧倒的不利な若者が存在感を主張して1票にレバレッジをかけるシステムなどを実現したい」と考えている人がいるそうだ。

今の政治のシステムは、若者が何をしたところで社会は変わらない。実際、学生闘争の時に学生の無力さは証明されている。彼らの時代はまだ人数で張り合えたが、今はもう国内で若者がマイノリティ、政治に積極的に参加している若者は数多くいれどもインセンティブは一向にない。世の中が若者によって変わることが万に一つもないという無力感。これを改善しなければ、次に批難されるのはいずれ年老いる今の若者だ。


10.土建政治について

今は社会が変わる過渡期である。この状態があと5~6年は続くのではないだろうかという意見があった。その後、すべて覆って新しい社会、価値観が台頭するであろうと思われるが、それがなんであるかはまだ誰にも分からない。
首相がころころ変わってしまう――すなわちトップがダメなのは、ブレーンが弱いことに原因があるだろう。また、今考えてみれば、首相の言うことがころころ変わってしまうのは、権力基盤が弱いために下からの意見が集約されずに上がってくるからだろう。民主党に政権与党を初めて担当させた国民にとっては、避けがたいコストである。

コンクリートから人へというキャッチフレーズで前原さんは建築業界の改革を行った。一部では当然反発はあったものの、何時までも土建国家ではいられない、社会の変化に伴う負わざるを得ない負担であり、これまでの時代は終わらざるをえない時代なのだ。これまでは、すべての根幹であった建築業界は大きな票田であり、自民党と持ちつ持たれつの関係だった。今、その付けが回ってきている。賃下げなどで切り抜けられる部分も少なく、これからどう生き延びるか、誰が退場するのか、これは政治に頼らず自分たちで考えなければならないことである。
また、海外に比べるとリスクを取るノウハウが無いため爆弾を抱えてしまったり、海外に出ていくことを躊躇う雰囲気があるという。今の課題は、外需を如何に取り込んで内需を高めるかと言うことだ。建設業界は真っ先に外需に乗り込んで火傷したが、それを繰り返して学びながらノウハウを積んでいかなければならない。
しかし、日本企業のトップ層は考えが固く、何も動こうとしない。上が年寄りばかりで下の前線の意見が届かず、新しい社会、新しい体験から学ぶことができない。鳩山さんも、リスクを取らない、取りたくない(国会議事堂の右側の)年寄りの人々にうるさいことをいわれて辞めさせられてしまったのだ。


11.エンディング

結局、パイオニアとなるのは若い人である。
あっさりと壁を崩し、その先にあるものへ手を伸ばせるか。
問われているのは自分たちだ。